だるまさんが転んだ発祥地!達磨寺の伝承

聖(ひじり)の徳を頂く

聖徳太子の名前の由来のようです。聖とは、達磨大師のことを指します。王寺町の達磨寺にお参りすれば、聖徳太子と達磨大師の深い絆を知ることができます。二賢人を表す太子石と達磨石(問答石)が本堂近くにありました。

達磨寺の太子石

達磨寺の太子石

聖徳太子の愛馬が足を止めた場所と伝わります。飢人(達磨大師)に気付いた黒駒が歩みを止め、太子は達磨大師と和歌を交わしたようです。

王寺町の達磨寺!聖徳太子とダルマの絆
臨済宗南禅寺派の片岡山達磨寺。 聖徳太子遺跡霊場第十九番の達磨寺は、聖徳太子が築いた達磨塚霊跡に建立されたお寺です。聖徳太子と達磨大師の出会いの地ともされ、日本書紀や元亨釈書などに見られる片岡山飢人伝説が今に伝わります。龍田大社へお参りした...

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南北に並ぶ太子石と達磨石

飢えて横たわっている達磨大師を見て、聖徳太子は歌を詠みます。

「しなてるや 片岡山に飯に飢ゑて 臥せる旅人 あはれ親なし」それに対し、達磨大師は「いかるがや 富の緒川のたえばこそ わがおほきみの み名をわすれめ」と返します。太子の慈愛に満ちた施しに対し、あなたの名を忘れることはないと詠っています。

達磨寺西門の雪丸像

達磨寺西門の雪丸像。

雪丸は聖徳太子の愛犬ですね。お経を読み、人の言葉を理解したと伝わります。本堂北東にある達磨寺1号墳が雪丸の墓なんだそうです。ちなみに達磨大師の墓は、本堂下の達磨寺3号墳と言われます。

「だるまさんがころんだ 発祥の地」の案内板。

~片岡山飢人伝説と聖徳太子の名の由来~

日本書紀によりますと、推古天皇の21年12月1日、聖徳太子が片岡山に遊行中に愛馬が急に歩みを止めた。見るとそこには餓死に瀕した飢人が転がっておられた。太子は和歌で問答を交わし、食べ物と自らの着物を与えられたがやがてその方は亡くなられた。太子は「この方は聖(ひじり)である」と言われ、篤く葬られた。後に棺を検めると、そこにはそのお体はなく着物だけがきちんと置いてあった。太子はその着物をもとのように着られ「こうして聖の徳を頂くのだ」と言われた。これが後に自身の名の由来となった。この飢人こそが達磨大師であり、その転んでおられた場所がこの達磨石であり、馬の止まった場所が太子石である。 白隠禅師:片岡山達磨図

小学校時代によく遊びましたね。

名称は幾つかあったように思います。だるまさんが転んだの他にも、「坊さんが屁をこいた」とも言いました。基本的にルールはあまり変わらなかったように記憶しています。聖徳太子と達磨大師の出会いの場。そこをそのまま発祥地とするのは強引なようにも思いますが(笑)、町おこしの一環としては歓迎したいですね。

達磨石(問答石)。

太子石の10mほど北にあります。

この場所に達磨大師が臥せていたと伝わります。実はこの問答石ですが、達磨寺3号墳の石室天井石ではないかとも言われています。

一心不乱に取り組み、物事を成し遂げることを面壁九年(めんぺきくねん)と言います。

壁に向かって坐禅を続けたのは達磨大師です。中国嵩山の少林寺に籠り、悟りを開いたという故事にちなんでいます。厳しい荒行のためか、手足を無くしてしまった達磨大師。・・・愛嬌あるダルマさんの姿には、実は奥深い意味があったのですね。

木に寄り添う太子石。

聖徳太子の“聖”は、達磨大師だったということになります。

諸説あろうかと思いますが、聖の徳にあやかろうとした太子の想いに触れます。聖(ひじり)って、元は「日知り(ひじり)」なんだと思います。いわゆる暦ですね。日を読む、日を知る人こそが聖人であるという発想には共感を覚えます。

問答石の手前から太子石を見ます。

今もお互いの距離はそう離れていません。

片岡神社の鳥居。

達磨寺から国道168号を挟み、反対方向に鎮座しています。背後には放光寺もあり、歴史散策にはおすすめの場所でした。

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