八方美人、八方塞がりという言葉があります。
いずれも全方位に渡る360度の広がりを象徴的に表しています。8という数字には時空における末広がりが感じられます。無限大に広がる「八」は、古来より吉祥の徴とされてきたのかもしれませんね。
奈良県桜井市の忍阪に八角形の古墳があります。
古墳の名前を段ノ塚古墳と言います。舒明天皇陵に治定されている八角墳(はっかくふん)として知られています。
綺麗に整備された石段が墳丘へと続いています。
道教思想の影響を受けた天皇陵古墳
なぜ八角形なのか?
前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳、帆立貝式古墳等々、古墳にも様々な形のものがありますが、八角形をした古墳は全国的に見ても大変珍しいものとされます。
段ノ塚古墳をはじめ全国に12基のみ存在する八角墳ですが、その大半が天皇陵とされます。
舒明天皇陵(段ノ塚古墳)の解説パネル。
墳丘の復元見込み図と、上空からの航空写真が案内されています。
復元見込み図をよく見てみると、確かに均等な八角形の形状が見られますね。数多ある古墳の中でも八角墳の数は極めて少なく、その希少性からも注目を集めています。
歴史的に見てみると、八角墳は7世紀中頃~後半に築造されていることが分かります。
舒明天皇は滑谷岡(なめはざまのおか)に葬られた後、643年9月押坂稜に改葬されています。その初葬墓である滑谷岡陵が、昨今話題になった明日香村の小山田遺跡ではないかと言われています。
大化の改新の後、646年には薄葬令(はくそうれい)が出されています。諸豪族の墓に対して規制が敷かれ、それまで権勢を誇ってきた巨大古墳が姿を消すことになります。それに対し、天皇陵だけは八角墳という特異な姿で存続することになります。
段ノ塚古墳(舒明天皇陵)の駐車場。
忍坂街道から東へ、緩やかな坂道を上って行くと段ノ塚古墳へアクセスします。
段ノ塚古墳を特徴付ける八角形ですが、これは中国道教の影響を受けているものと思われます。「天下八方を治める大王」にふさわしいお墓として、八角墳が採り入れられたのです。豪族の力が衰えていくのに反し、天皇の力は徐々に伸長していくことになります。
段ノ塚古墳の手前に手水がありました。
「大」の文字が刻まれているのでしょうか。
古墳の脇道を抜けて行くと、鏡女王押坂墓へと続きます。
忍坂街道界隈も十分に昔の風情を味わうことができますが、この辺りまで来ると異世界への入口を感じさせます。明らかに空気が違うのです。
八角墳は終末期古墳です。
巨大な前方後円墳で幕を開けた古墳文化の最後の姿と言えなくもありません。
段ノ塚古墳は二段築成の八角形の墳丘の前面に、裾が拡がる三段の方形段を持っています。墳丘図と見比べながら、その形状を改めて確認します。
道教は中国三大宗教の一つとされます。
儒教、仏教、道教がそれに当たり、飛鳥における謎の石造物群も道教の影響を受けているのではないかと言われています。無為、自然を旨とする道教の教え。道教の「道」の字は部首のしんにょうが終わりを意味し、首が始まりを意味していると言います。
始まりと終わりがループして、永遠に続いていくそんなイメージが浮かび上がります。数字の8を横に倒すと ∞(無限大) になるのもあながち偶然ではないような気が致します。
墳丘へと登る階段は何段あるのでしょうか。
かなり高い場所に天皇陵が鎮まります。
八角墳は天皇だけに許されたラグジュアリーな古墳だったのでしょうか。12基ある八角墳ですが、実にその内の6基が奈良県内に存在しています。
桜井市の段ノ塚古墳(舒明天皇陵)、高取町の束明神古墳(草壁皇子墓)、明日香村の野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)・中尾山古墳(文武天皇陵)・岩屋山古墳・牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)は全て八角墳です。
奈良県外にも八角墳は存在しており、東京都多摩市百草の稲荷塚古墳や兵庫県宝塚市の中山荘園古墳などは天皇陵八角墳よりも古い時代の古墳とされます。地方の豪族たちが、中央よりも先に中国の道教に接していた可能性が示唆されます。
母親の田村皇女との合葬陵
舒明天皇陵は合葬陵とされます。
第34代舒明天皇のみならず、その母親に当たる田村皇女(たむらのひめみこ)も合葬されています。
段ノ塚古墳(舒明天皇陵)の入口。
右手に伸びる道は、鏡女王押坂墓、大伴皇女押坂内墓へと続いています。
舒明天皇押坂内陵(じょめいてんのう おさかのうちのみささぎ)。
舒明天皇に並列するように、糠手姫皇女(ぬかてひめのおうじょ)の名前が見られます。
糠手姫皇女は舒明天皇の母・田村皇女のことを指します。
家系図で説明すれば、敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の后に当たる人物が田村皇女ということになります。
階段の踊り場のような所に水たまりが残っていました。
秋雨前線の停滞により、しばらくぐずついた天気が続いています。晴れ間がのぞいたので出かけてみましたが、こんな所にお天道様の足跡が見られました。
静謐を約束される天皇陵です。
侵しがたい空気がそこには漂っていました。
段ノ塚古墳(舒明天皇陵)の墳丘図ですね。
墳丘図手前には、先ほど往復した石段も詳細に描かれています。
舒明天皇は49歳で崩御したと伝えられ、母の田村皇女は息子である舒明天皇より20年以上も長く生きたと言われます。子を失くす悲しみを味わい、その後に合葬されたものと思われます。
舒明天皇の名前は、息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)と言うようです。
押坂彦人大兄皇子の第一皇子で、629年に即位しています。皇居は飛鳥の岡本宮で、天皇在位期間は13年に及びます。
忍阪の地を見下ろす場所に眠ります。
駐車場が下に見えていますね。
段ノ塚古墳の航空写真。
出展は桜井市立埋蔵文化財センターのようです。「前方後円墳の終焉とその後」と題されています。いつも思うことですが、ヘリコプターからの古墳観光が実現すれば、今まで以上に奈良を訪れる人も増えるのではないでしょうか。
大伴皇女押坂内墓への行き方が案内されていました。
赤く塗られた道を辿って行けば、鏡女王押坂墓を経由して辿り着くようです。
<忍坂街道の関連情報>