西古墳の後に築造された東古墳。
墳形は前方部の短い帆立貝式で、大きな括りでは前方後円墳に属するようです。一段で構成される三陵墓西古墳(円墳)とは違い、東古墳の後円部は三段築成とゴージャスです。東古墳の埋葬施設は明治から大正にかけて盗掘に遭っていますが、銅鏡などの出土が今に伝えられます。
三陵墓東古墳の後円部。
おそらくここが一段目の踊り場だと思われます。
二段目、三段目と続く墳丘を仰ぎ見ます。葺石が敷き詰められ、周囲には埴輪が並んでいました。
全長110m!都祁の里を見下ろす大和高原屈指の大型古墳
三陵墓東古墳の全長は110mにも及びます。
前方部と後円部の高さの差が7.5mもあり、その高低差は顕著です。葺石の他、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪なども確認されています。
後円部二段目の埴輪列。
墳丘斜面の葺石が綺麗に残っていますね。円筒埴輪や朝顔形埴輪が並んでいました。
史跡三陵墓東古墳。
西古墳から東古墳へ向かう途中、「時空の丘」と題する石のモニュメントがありました。そこで古代空間を望遠した後、東古墳を目指します。東古墳の手前には駐車場と公衆便所がありました。
西古墳と東古墳の分岐点。
とても分かりやすい道案内ですね。
奈良県指定史跡の三陵墓東古墳。
この古墳は大和高原・宇陀郡の中では最大級の前方後円墳で、墳丘長約110m、後円部径約72m、前方部長約39m、前方部幅約50mの規模です。墳丘斜面には葺石が施され、後円部は3段に形づくられていて各段と墳頂部には埴輪が立て並べられています。また前方部と後円部との高さの差が7.5mとかなり大きく、5世紀の後半でも古いころにつくられたものです。
主体部は未発掘ですが、粘土槨と思われる埋葬施設から銅鏡2面のほか玉類、鉄製武器・工具類が多数出土したと伝えられています。墓の主は明らかではありませんが、『古事記』『日本書紀』には「都祁直(つげのあたい)」「闘鶏国造(つげのくにみやつこ)」とあり、有力支配者の存在が考えられます。
東古墳の丘陵へ上がります。
石段の両脇には、びっしり敷き詰められた葺石が見られます。
すたすたと上がって行きます。
きちんと整備されていて、迷うこともありません。
おや?
ここは墳頂ではないですね。
かなり広い原っぱに出ました。なるほど、三段築成とはこういうことだったのですね。
東古墳の墳頂付近から下界を見下ろします。
道路を挟んだ反対側にはお寺がありました。
東古墳の墳頂。
草木が茂り、西古墳とは雰囲気が違います。墳頂の面積も、明らかに西古墳よりは小さいですね。
西古墳の方を望みます。
ここもまた、実にのんびりとした空気が流れています。
葺石が綺麗です。
遠方の山々を望みながら、ここが都祁盆地であることを再確認します。
上から埴輪列を見下ろします。
きっと結界の意味合いもあったのでしょう。
お寺の前を通る道から、東古墳を見上げます。
あらゆる角度から眺め、三陵墓古墳群を堪能しました。
西古墳の手前には、金糸梅(キンシバイ)が開花していました。
鮮やかな黄色!とても艶っぽい花です。
時空の丘。
東古墳と西古墳の間にありました。
一見すると不思議なオブジェですが、ちょっとした体験が楽しめます。
こんな感じ。
視界の先に、西古墳の前に立つ「つげまろくん」を捉えます。
こちらは窮屈ですが、かろうじて都祁地区のマスコットキャラクターが見えています。
悠久の時間と空間を遊びます。
こちらは三陵墓古墳群史跡公園の公衆トイレ。
冬期(12~3月)に限り、水道の凍結破損防止のために閉鎖されるようです。さすがは高原地帯ですね。
初夏の今は・・・
防鳥対策で網が掛けられていました。カラスの侵入を防いでいるようです。大自然と共にある三陵墓古墳群を感じさせる一コマですね。
シンボルモニュメントと住居跡表示の道標。
シンボルモニュメントとは、おそらく西古墳のつげまろくんのことを指しているのでしょう。
電信柱の「都介野」。
都祁の里には、「都介野富士」の異名を持つ都介野岳(つげのだけ)が聳えています。
一口に都祁(つげ)と言っても、実に様々な表記が見られます。都祁、柘植、闘鶏、竹渓、都介野等々、その歴史の深さをうかがわせますね。