万葉集の巻十六・三八三七に有名な歌があります。
ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たる見む
「久方(ひさかた)の」は天(あめ)、天(あま)、雨、月、雲、光、都などに掛かる枕詞です。「ひさかたの天(あめ)の香具山」などはよく知られるフレーズですよね。
万葉集の歌のように、ぷるんとした玉が蓮の葉の真ん中に転がっています。
詳しいことは分かりませんが、蓮の葉の表面は水をはじく構造になっているんでしょうね。泥の中から生え出でて、天に向かって大きな葉っぱを広げています。その上に転がる水玉は清廉潔白の象徴のようでもあります。
蓮葉の古名は「はちすば」
万葉歌にも登場する蓮葉の読み方ですが、「はちすば」と読みます。
蓮(ハス)の古語を「はちす」と言いますが、古来より仏教との結び付きの強いハスは実に様々な言葉を生み出してきました。
例えば、極楽浄土に生まれようとする願いを「蓮(はちす)の上の願ひ」と表現します。玉に似た蓮葉(はちすば)にたまれる水を見て、昔の人は何を想ったのでしょうか。
蓮葉(はちすば)にたまれる水。
今年も藤原宮跡の蓮は様々な姿を見せてくれました。
盂蘭盆会の仏間ではすっかりおなじみの蓮の葉ですが、こうやって実際に蓮の花が咲いている場所で見てみるのもいいものです。これほどまでにくっきりと朝露を感じさせてくれる蓮に感謝です。
ハスの花托と畝傍山の風景。
花が散った後に残る花托。花を託す箇所だから花托と言うのでしょうか。
見れば見るほど蜂の巣に似ています。蜂の巣を思わせるから蜂巣(はちす)→蓮(はちす)になったとも言われています。
新潟県長岡市に行けば、良寛終焉の地と言われる「はちすば通り」があります。
良寛と、良寛が生涯の中で唯一気を許した尼僧・貞心が詠み交わした相聞歌集の「蓮の露」に由来しています。良寛は蓮の露に何を感じていたのでしょうか。興味の尽きないところです。
大きい玉もあれば、小さい玉もあります。
はちすばの真ん中に吸い寄せられるように、小さな露が輝いています。宝石にも似た美しさ、と言ったら言い過ぎでしょうか。生命力を宿らせながらも、どこか儚げな雰囲気も漂います。
蓮の根の中にある糸を、極楽往生の縁を結ぶことに因んで「蓮(はちす)の糸」と言います。
和食でいただく蓮餅などはもちもちした食感が持ち味ですが、あの独特のモチモチ感は蓮の根の糸があってこそではないでしょうか。お寺の御本尊との結縁などにも糸や紐が使われます。あの ”つながっている” という安心感は何物にも代えがたいものがあります。
ハスのいいところばかりを書いてきましたが、少々悪い意味でも使われているようです。
態度や言動が軽はずみで品の無い女性のことを「はすっぱ」と言いますよね。
あのはすっぱの語源も、同じく蓮の葉に由来しています。蓮の葉が水をはじくときの形状に例えた言葉のようです。落ち着きがなく身持ちが定まらない様子を表しているのだとか。コロコロと転がってどこへ行くのか分からない、そんな様子を例えた言葉なのかもしれません。はすっぱ女に関しては、その語源を斜端(はすは)ではないかとする説も唱えられていて、事の真偽は定かではありませんが。
ひさかたの雨も降らぬかはちす葉に~
この万葉歌に触れてみて、現代人との感覚の類似を見るような気が致します。やはり昔の人たちも、蓮の葉の上に転がる水玉にはひとかたならぬ興味があったようです。