忍坂街道の神籠石

外山にあるスーパーオークワで買物をした後、時間があったので忍阪まで歩いてみることにしました。

国道166号線の忍阪交差点を左手に上がると朝倉団地の方へ向かいますが、今日は歴史散策ということで、交差点を右に曲がって押坂山口坐神社へお参りします。境内のクスノキの御神木を仰いだ後、再び国道へ戻って昔の町並みが残る忍坂街道へと入ります。

神籠石

不思議な佇まいの神籠石(じんごいし)。

忍坂街道から舒明天皇陵へと上がって行く道沿いにちご石と呼ばれる巨石があります。大きな石の上には火の見櫓が見えます。この火の見櫓は昭和35年頃に、近くの忍坂街道沿いにある生根(いくね)神社より移設されたものです。

スポンサーリンク

神籠石の由来

石垣の上にどっしりとその姿をたたえる神籠石。

大神神社周辺でも数多くの磐座を見てきましたが、明らかに趣を異にするパワーストーンではないでしょうか。神秘的な大石にはとある伝説が言い伝えられています。

神籠石

歴史を楽しむハイキングロードとして人気の忍坂街道。

忍坂街道はその昔、宇陀方面から奈良盆地へと進軍した神武天皇ゆかりの道でもあります。

神籠石には神武東征時の逸話が残されているのです。

神籠石案内板

神籠石(通称ちご石)の案内板。

ここは字「屋垣内(やがいと)」。
古書には『忍坂村の中央に「楯の奥」(現・タツノ奥。明治22年の法務局・地籍図には辰ノ奥、タチノ奥と表記あり)というところあり、その北の「矢垣内」(現・屋垣内)に「神籠石」という大きな建石がある』と記されています。

神武東征のとき、天皇がこの地にいた八十建(ヤソタケル)を討つとき、この石に隠れ石垣をめぐらし矢を持ち楯とした大石という伝説あり・・・とも。
楯とした石がある奥の方・・・だから「楯の奥」。それが現在の字名「タツノ奥」(タチノ奥)の由来となっています。
この石は、聖域を示すモニュメントだという説もあります。

地元では「ちご石」と呼び、この石を割ると血が出ると言い伝えられてきました。
神聖な石として伝承され、ジンゴイシ、ジンゴイシと繰り返し言われ、いつしか「チゴイシ」・・・そして「ちご石」になってしまったのです。

なるほど、楯の奥ですか。

この巨大な石を楯にして、矢を持って戦った姿が思い浮かびます。
忍坂街道のキバナコスモス

忍坂街道沿いにキバナコスモスが咲いていました。

夏から秋にかけて開花するキバナコスモスですが、ちょうど今の時期が見頃なのかもしれません。

舒明天皇陵の石標

忍坂街道沿いに立つ舒明天皇陵の石標。

この緩やかな坂道を上って行けば、天智天皇の父として知られる舒明天皇の陵があります。この場所からでも、左手奥に神籠石の火の見櫓が見えていますね。

神籠石

戦の残り香が感じられる忍坂という地。

和歌山県橋本市の隅田八幡宮(すだはちまんぐう)所蔵の国宝・人物画像鏡(5世紀)には金石文(きんせきぶん)で意柴沙加宮(おしさかのみや)と刻まれています。

古代の忍坂は大和政権を支えた重要拠点だったのです。

現在の地名では「忍阪」と「阪」の用字が見られますが、街道名などの歴史的表記におけるオッサカは「忍坂」と「坂」の字が使われているようです。古代地名のオッサカには、その他にも数多くの表記が見られます。於佐箇、意佐賀、意佐加、押坂等々もみなオッサカを表しています。

国道166号線の忍阪の手前には、男坂橋という栗原川に架かる橋があります。「男坂」の表記も、おそらく同じようにオッサカを意味しているものと思われます。

神籠石

背後から神籠石を見ます。

まるで横穴式石室の天井石を思わせます。大石の背後は平らに加工されたような跡が見られ、人の手が加わっているような気がするのです。

スポンサーリンク

舒明天皇陵の下手に位置するちご石

神籠石のある場所は、舒明天皇陵から下手の西側です。

舒明天皇陵から緩やかな坂道を下って行くと、わずか数分で神籠石にアクセスします。

忍坂街道

舒明天皇陵から坂道を下って行くと、このような場所に行き当たります。

道が二手に分かれているのですが、左が車道兼歩道で、右が歩行者専用道路といったところでしょうか。どちらの道も忍坂街道に通じています。神籠石へは左の道を取ることになります。

忍坂街道の花

中央分離帯のような場所は植え込みに利用されていて、綺麗な花が咲いていました。

右手向こうへ続く道は歩行者用の道です。民家の間を縫うように道を下って行くと、忍坂街道の玉津島明神に出ます。玉津島明神には井戸があり、そこの水を産湯に使うと美人になるという言い伝えが残っています。

舒明天皇陵

こちらが舒明天皇陵です。

かなり高い所にあります(笑) この場所からだと忍坂の風景を楽しむこともできますね。

神籠石

先ほどの二手に分かれた道を左に取って下って行くと、程なく右手に神籠石が姿を現します。

昔は素手で正面からこの巨石によじ登り、一畳敷きの上で大の字になったと云います。大の字になれば一人前の証とされていたそうです。行きはよいよい帰りは恐いで、登ることは出来ても下りる時に恐怖を感じたのだとか(笑)

タチノオク

明治22年の地籍図にも「タチノオク」の字名が書かれています。

これは忍坂周辺の古地図のようです。一際高い山は外鎌山でしょうか。

神籠石の巨石

所々に窪みがあり、足を引っ掛けて登っていけそうですね。

昔の人たちは、ちょっとしたロッククライミング気分を味わっていたのかもしれません。

忍坂(おっさか)という難読地名はよく話題に上ります。

「允恭紀」には、天皇の皇后 忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の御名代(みなしろ)として忍坂部(おさかべ)を定めたと出ています。オサカベは刑部とも書きます。

刑罰や訴訟に関する事務を司った役所を刑部省(ぎゃうぶしゃう)と言いますが、「垂仁紀」には神刑部(かみおさかべ)の名前が見られます。神の審判を得て罰を下す任に当たった人たちですね。

古代の武器庫として知られる石上神宮に、忍坂邑から多数の大刀が収められたという記録も残されています。

神籠石の鐘

歴史を感じさせる火の見櫓。

刑部(おさかべ)と忍坂(おっさか)。地名に残された過去の記憶を辿ります・・・

神籠石(ちご石)

神武天皇ゆかりの神籠石。

忍阪周辺の広域マップを広げてみると、神籠石の西に鳥見山が聳えているのが分かります。

すぐ近くには土偶や鳥居で話題の等彌神社が鎮座しています。等彌神社も神武天皇に所縁のあるお社ですよね。

神籠石

我が国初の八角墳・舒明天皇陵の下手に位置しています。

舒明天皇陵がすぐ近くにあることから、舒明天皇陵の兆域原標と考えることもできます。墓のある区域を表す兆域原標。箸墓古墳の周囲にも兆域原標が見られますが、これほど大きなものではありません。ここからここまでがお墓ですよと示す、ただそれだけのためにこのように巨大な石を置くでしょうか。やはりそこには大きな疑問が残ります。

神籠石の解説

やはり敵の矢を防ぐための楯だったのか。

いずれにしても古代ロマンを掻き立てる巨石であることに変わりはありません。

神籠石の上手は舒明天皇押坂内陵、鏡女王の万葉歌碑、鏡女王押坂墓、大伴皇女押坂内墓と続きます。忍坂街道をそのまま南へ進むと、「伝 薬師三尊石佛(重要文化財)」で知られる石位寺が佇んでいます。

<忍坂街道の関連情報>

タイトルとURLをコピーしました