国宝仏の菩薩半跏像で知られる中宮寺。
聖徳太子が母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)のために建立した尼寺です。鵤尼寺(いかるがにじ)とも称され、法隆寺夢殿の北東に位置しています。
中宮寺本堂。
頑丈そうなコンクリート造りの本堂で、昭和43年(1968)に高松宮妃殿下の発願で建立されました。中宮寺の旧地は東方500m程の場所にあり、今は中宮寺跡史跡公園として整備されています。
愛らしい双髻と半跏踏み下げ思惟形
中宮寺の菩薩半跏像は、寺伝では如意輪観音とされます。
「伝如意輪観音」とも言われますが、本来はやはり弥勒菩薩として造像されたのでしょう。飛鳥彫刻の最高傑作であり、その微笑(アルカイックスマイル)はエジプトのスフィンクス、レオナルドダヴィンチのモナリザと並び「世界三大微笑像」と称されます。
中宮寺半跏思惟像の写真。
足を組み、頬杖をするポーズはすっかりおなじみですね。
頭頂には2つの球状の髷(まげ)が見られます。なんだか可愛いと言っては失礼ですが、この国宝仏を特徴付ける部分ではないでしょうか。髪の毛を頭上で束ねた双髻(そうけい)と呼ばれる部位で、お洒落な印象を受けます。
中宮寺門跡の標石。
法隆寺夢殿の門前を左へ取り、中宮寺へと向かいます。
中宮寺は聖徳宗の尼寺で、大和三門跡尼寺(法華寺、円照寺、中宮寺)の一つに数えられます。
中宮寺半跏思惟像の尊顔。
額と毛髪との境目を表すラインは両脇だけに見られます。正面では消えており、お顔全体の柔らかい丸みを生み出します。上瞼の下部が斜めに削られていますが、眼の形ははっきりしません。そこに映る影だけでほのかに眼が表現されています。ソフトタッチの尊顔は、あらゆる技法により成立していることが分かります。
中宮寺山門。
左手が入口になっていて、すぐに拝観受付がありました。
中宮寺の入山料は600円です。
この日は境内の鳩和殿において、現代の聖徳太子絵伝が公開されていました。
屏風の中に聖徳太子の一生が描かれており、見ごたえのある特別展でした。
天皇を象徴する十六菊花紋。
皇室ゆかりのお寺らしく、軒丸瓦には皇室のシンボルを刻みます。
榻座(とうざ)という丸椅子に坐します。
半跏思惟像は元来、彩色されていたようです。今は下地の漆が露出し、いい具合に黒光りしています。額や胸の辺りには釘跡があり、かつては宝冠や胸飾りを付けていたものと思われます。
この仏像は聖徳太子の母を模したものでしょうか?
間人皇后の生きた時代は権力闘争の真っ只中で、間人皇后の兄弟に当たる崇峻天皇は伯父の蘇我馬子によって暗殺されています。苦悩する母を想い、聖徳太子が中宮寺を建てたのかもしれません。
拝観受付、売店と連なる建物の奥に、藤棚のようなものがありました。
藤棚を前にするお堂ですが、その中はどうなっているのでしょうか。
右手には「黒鉄(くろがね)もち」の木が植えられています。
黒鉄黐(クロガネモチ)は黐木科(もちのきか)の植物で、冬になると赤く綺麗な実を付けるようです。
左の木が菴羅樹(あんらじゅ)で、右の高い方がクロガネモチです。
クロガネモチの樹皮からは鳥黐(とりもち)が採れるそうです。黒鉄黐の名前の由来は、枝や葉柄が紫色をしているためと言われます。
確かに黒っぽい紫色ですね。
葉には光沢があり、常緑高木に分類されます。
クロガネモチの左側には、珍しい形の石燈籠が建ちます。
ご本尊の菩薩半跏像を安置する本堂ですが、ここから右手へ歩いて行きます。
本堂が見えて来ました。
その前に、一歩手前にあった建物をご案内しておきます。
中宮寺表御殿(おもてごもん)。
宮家の人々をお迎えする迎賓館のようです。通常非公開で、和室6部屋で構成されており、奥には品格ある黄金色の花鳥画の襖絵などがあります。
本堂の後方横に石碑が建立されています。
かなり読みづらい文字ですが、「皇后宮御歌」と書かれているのかもしれません。
中宮寺本堂。
池の中に建つお堂で、周囲の生垣には山吹が植わります。吉田五十八先生設計による”耐震耐火”の御堂です。以前の本堂は西向きだったようですが、上代寺院の規則に従い南面にて建立されています。
枡組、蛙股等の組物を一切使わない簡素な造りです。
本堂内には菩薩半跏像の他にも、国宝の天寿国曼荼羅繡帳(レプリカ)が収められます。
御年48で亡くなった聖徳太子。
太子の死を甚く嘆いた御后の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、宮中の采女たちに命じ、太子が往生している天寿国という理想浄土のありさまを刺繍したものが天寿国曼荼羅です。複製とは言え、日本最古の刺繍です。ご本尊の左手前に展示され、解説のアナウンスを聞きながら間近に鑑賞することができます。
本堂前の南西隅にあった社殿。
石燈籠を従えたお稲荷さんのようです。
土塀を背に、随分窮屈な場所に祀られています。
裏鬼門を守る意味合いでしょうか。
ちなみに中宮寺の表鬼門・北東方向には、中宮寺守護の「秋葉神社」が祀られています。
真正面から見る本堂。
本堂へのアプローチには橋が架かっています。階段の下には簀の子板が並行して並びます。簀の子の脇で靴を脱ぎ、本堂へと上がります。
威風堂々とした造りです。
昭和43年の5月に落慶を迎えており、ちょうどその時期は山吹の花が見頃だったのかもしれません。古色蒼然とした木造建築には無い趣が感じられますね。
石垣の上に建立されています。
朱色の柱ですが、下だけ色が違いますね。水量が増す時もあるのでしょうか。
扉にも皇室の御紋が見られます。
気品漂う半跏思惟像との出会いに胸がときめく瞬間です。
本堂向かって左手の回廊に出ると、法隆寺夢殿の屋根も見えています。
聖徳太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された中宮寺。
創建当初の中宮寺はここから東へ500mの場所にありました。南に塔、北に金堂を配する四天王寺式伽藍配置であったことが確認されています。今も中宮寺跡史跡公園へ足を延ばせば、かつての塔跡等を見学することができます。周囲にはコスモスが咲き誇り、斑鳩三塔を同時に一望できるビュースポットもありました。
中宮寺にある会津八一の歌碑
歌人であり、美術史家でもあった会津八一。
奈良県内にも数多くの足跡を残している会津八一ですが、中宮寺境内にもその歌碑が建っていました。
八一の歌の中でも、奈良坂の夕日地蔵を詠った歌はとても印象的です。
お地蔵さんの顎に着目した歌ですが、菩薩半跏像を称賛する歌にも美しい顎のラインが強調されます。
本堂前に建つ会津八一の歌碑。
みほとけの あごとひぢとに あまでらの あさのひかりの ともしきろかも
菩薩半跏像の顎と肘に朝の光・・・その時の情景を思い浮かべます。しなやかな動きを感じさせる美仏は、その顎と肘とに美しさが集約されます。
思わず歌を口ずさみたくなる仏様です。
図らずも生まれた歌なのかもしれません。
本堂の右手脇を通って、新殿の鳩和殿へと続きます。
東洋美術における「考える像」。
いかにして人々を救うことが出来るのか、その慈愛に満ちた心をもって思索にふけります。千手観音のように救いの手が多数表現されているわけではありません。十一面観音のようにあらゆる方向を向いているわけでもありません。限りなく自然体で、普通の人の姿を映しているようにも見えます。
堂内の拝観客が垣間見えます。
日本が誇る至宝と向き合い、おのが身を照らし合わせます。
中宮寺の菴羅樹。
桜井市の談山神社でも見た霊木ですね。
菴羅樹の実が成っていました。
無数に咲く花に比べ、結実することの少ない木とされます。そのため、宗教上の悟りの困難さを示唆すると言います。そんな菴羅樹が結実しています!これはラッキーですね。
菴羅樹の前を右へ取れば、本堂へと続きます。
旧斑鳩御所の中宮寺。
法隆寺拝観の際は、是非セットで訪れたい名所です。