忌部氏ゆかりの天太玉命神社

橿原市忌部町の地名由来にもなっている神社。

橿原運動公園のある雲梯町の北側に当たります。橿原イオンモールにも程近く、神社のすぐ隣にはスーパービバホーム橿原店、ロピア橿原店などの商業施設が建ち並びます。天太玉命神社の社前には国道166号線が通り、車の往来も激しい場所でした。

天太玉命神社

式内大社 天太玉命神社。

コンクリートの参道が拝殿、本殿へと続いています。

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『古語拾遺』と忌部氏!朝廷祭祀のライバル中臣氏

アメノフトタマノミコト。

主祭神の名前ですが、濁点を付けてアメノフトダマノミコトとも言うようです。古代氏族忌部氏の拠点は、奈良盆地を流れる曽我川の西に位置していました。

式内大社天太玉命神社

社号標に刻む天太玉命(あめのふとたまのみこと)

石鳥居の右手前に、小ぢんまりとした手水舎があります。周辺は賑やかなエリアですが、ここだけは静謐な空間が保たれているような気がします。

天太玉命神社本殿

拝殿の中の絵馬。

その向こうに玉垣に守られた本殿が見えますね。

天太玉命神社

こちらは拝殿前の二の鳥居。

両脇に建つ石燈籠の竿には「太玉社」と刻みます。

天太玉命神社の天王社

境内社の天王社

拝殿手前、左側に祀られていました。

天太玉命神社拝殿

天太玉命神社の拝殿。

忌部氏と言えば、そのライバルであった中臣氏が頭をよぎります。お互いに朝廷祭祀を司っていた忌部氏と中臣氏。次第に中臣氏の勢いに押され、衰退していくことになる忌部氏。時は下り、平安時代には忌部から斎部(いんべ)と改称するに至ります。

天太玉命神社

斎部の姓で思い出すのが、『古語拾遺』を編纂した斎部広成(いんべのひろなり)

忌部氏を圧迫していた中臣氏に対抗する形で著されたのが『古語拾遺』です。忌部氏の権限を主張する神道資料というわけですね。

天太玉命神社の調査写真

奈良朱雀ビジネス企画部により、絵馬等に関する調査が行われたようです。

平安時代の大同2年(807)、平城天皇に献上された『古語拾遺』。歴史書においては、古事記や日本書紀がよく知られますよね。記紀の信憑性が取りざたされる中、古語拾遺の重要性を説く人もいるようです。

天太玉命神社駐車場

社頭右側の駐車場。

そんなに広くはありませんが、ちゃんと駐車スペースが確保されていました。

天太玉命神社

おや?

小石が積まれていますね。盛砂ならぬ“盛石”でしょうか。

天太玉命神社駐車場

天太玉命神社の駐車場。

国道沿いに鎮座するだけに、車でアクセスするのが便利でしょう。

橿原忌部簡易郵便局

道を挟んだ前に、橿原忌部簡易郵便局がありました。

すぐ東を曽我川が流れています。

天太玉命神社

中臣氏との確執。

中臣氏につながるアメノコヤネは美声の持ち主だったと伝わります。祝詞を上げるのが得意だったんですね。朝廷祭祀に祝詞は付き物です。想像の域は出ませんが、おそらく忌部氏も美声の持ち主だったのではないでしょうか。

天太玉命神社由緒

天太玉命神社の由緒。

祭神 天太玉命 大宮売命 豊石窓命 櫛石窓命

当社の祭神天太玉命は、斎部氏の祖神で、『記』『紀』によると天孫降臨の節、天児屋根命とともに、従して祭祀のことを掌って朝廷に奉仕したとある。その孫天富命も天種子命とともに神武天皇に仕えて祭祀を担当して橿原宮の造営にも当たったが、当忌部の地に居住して一族の宗家となり、斎部氏を称した。その後代々の子孫永くこの地方に土着、自らの祖先と斎部氏に縁故のある神霊をまつったのが当社の起源である。

灯篭竿の「太玉社」。

向こうの石柱は百度石ですね。

天太玉命神社鳥居

一の鳥居に注連縄と紙垂が掛かります。

「杜」と呼ぶほどではありませんが、境内は十分な緑に守られています。喧騒を忘れる空間が保たれ、参拝客を待ち続けています。

天太玉命神社

忌部氏の歴史を辿ると、ここ奈良県橿原市忌部町もそうですが、全国各地に広がっていることが分かります。

代表的なのは阿波地方ですね。

阿波や越前、紀伊、出雲、上総国にまで忌部氏ゆかりの地は分布しています。

天王社

天王社と言うからには、スサノオが祀られているのかもしれません。

天太玉命神社の境内社

どうやら「岡本天王社」と刻まれているようです。

商業施設が集まるエリア。買い物ついでに、古代に想いを馳せてみるのもいいでしょう。

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