11月に開催された聖林寺曼荼羅展へ足を運んで参りました。
聖林寺秘蔵のマンダラ展公開期間は11月1日から30日までの一箇月間です。毎年のことなのですが、11月は秋の旅行シーズンとも重なり多忙を極めます。何とか最終日の30日にすべり込む形で参拝することができました。
聖林寺本堂。
久々の聖林寺拝観に身が引き締まります。
通常日の拝観料は400円ですが、曼荼羅展開催中のみ500円となっています。今まで観音堂の国宝・十一面観音菩薩や、本堂安置の御本尊・子安延命地蔵菩薩には何度もお会いしているのですが、様々な種類の曼荼羅を一度に楽しめるというマンダラ展にはお邪魔したことがありませんでした。
待ちに待った待望の曼荼羅展です。
春日大社の境内を描いた「春日宮曼荼羅」
聖林寺本堂近くの書院に、十五幅の掛軸が公開されています。
南北朝時代の観音浄土補陀落山図(桜井市指定文化財)、江戸時代の2m四方に渡る當麻曼荼羅、春日大社の境内を縦長に描いた春日宮曼荼羅等々が小さな書院の中で公開されていました。
山門下に曼荼羅展の看板が出ていました。
拝観受付で購入した十一面観音のクリアファイルをかざします。優美なお姿を映したクリアファイルのお値段は350円。裏側にはしなやかな観音様の指も浮かび上がり、拝観記念にはおすすめの逸品となっています。
曼荼羅展の開催場所。
本堂向かって左手の書院スペースに展示されていました。
廊下沿いに障子が開け放たれていますが、その間から中へ入ります。
残念ながら曼荼羅展の各掛軸は写真撮影禁止となっていますので、聖林寺のHPをご参照下さい。金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅、星曼荼羅、春日鹿曼荼羅なども見ものです。さらには千体仏の描かれる過去、現在、未来の三幅も必見です。
12の星座が描かれる星曼荼羅には西洋占星術との関係が見え隠れします。占星術では一人一つの星座が割り当てられますが、星曼荼羅の世界は半月単位で区切ることによって一人が二つの星座を持ち合わせることになります。
こちらが室町時代の春日宮曼荼羅です。
一の鳥居と二の鳥居らしき朱色の鳥居が参道沿いに建ちます。掛軸上方の山の向こうには月が浮かんでいるのでしょうか。
春日大社の境内も、今とは違う様相を呈していたものと思われます。曼荼羅と言えば、無数の仏像が規則的に描かれた絵を想像しますが、意外にも春日宮曼荼羅のような曼荼羅も存在するのですね。
聖林寺のお守りと御朱印
2015年の今年は未年です。
11月も末頃になると、本格的に来年度のことが頭をよぎります。
来年の平成28年度の干支は申です。毎年恒例の安倍文殊院のジャンボ花絵にも申が登場しました。橿原神宮の大絵馬にも、既に親子申が姿を現しています。この時期になると、ウィスキー山崎の干支ボトルも頻繁に話題に上るようになります。
全国各地の神社やお寺では、来年の干支にまつわるお守りに注目が集まり始めます。
聖林寺の親子申と桃持ち申。
縁起の良い桃を両手で抱えていますね。桃には魔を追い払う、厄除のメッセージが感じられます。黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが桃を追手に投げつけた話は有名です。
どうやら親子申の親ザルも桃を手にしているようです。
あどけない表情をしています(笑)
山門下の万葉歌碑にクリアファイルをかざします。
椋橋(くらはし)の 山を高みか 夜ごもりに 出で来る月の 光ともしき
聖林寺近くの倉橋の山を詠った歌ですね。クリアファイルは実用的ですので、寺社参拝のお守り代わりに買い求めることがよくあります。スタイリッシュで美しい十一面観音菩薩を写し取った、とてもクールなお土産ですね。
聖林寺の南天まもり。
冬の聖林寺境内には、南天、千両、万両などの実が成ります。「難を転じる」にかけて縁起物とされる南天のお守りが初穂料500円で販売されていました。
その横には十一面観音と子安延命地蔵の絵馬がそれぞれ700円、500円で売られています。絵馬は観音堂へ通じる階段横にも吊るされているのでその存在を知っていたのですが、南天まもりは初めて見ました。
こちらは聖林寺の手拭いです。
聖林寺にまつわる柄がモチーフとして使われています。
額縁に収められているのは散華ですね。
法会の儀式において、蓮の花弁を散らして仏に供養することを散華と言います。仏教と深い関わりのある蓮の花びらが模られていることに気付かされます。戦時中は潔い戦死を称える言葉でもありましたが、二度と繰り返してはならない過去であることを肝に銘じたいと思います。
チケットを入れるチケットファイルにも、十一面観音の横側が写されます。
慈愛に満ちた穏やかなお顔立ちです。
絵葉書でしょうか。
水彩画風のソフトなタッチで、聖林寺界隈が描かれています。
このしなやかな右手の指が印象的です。
ミロのヴィーナスとも比較される仏像彫刻の傑作ですね。
天平時代の国宝・十一面観音菩薩立像は2.2mの長身を誇る木心乾漆像(もくしんかんしつぞう)です。760年代に東大寺造仏所で造られ、その願主は天武天皇の孫・智努王とする説が有力です。
あまりの美しさのためか、明治20年(1887)までは秘仏とされていました。
神仏分離の混乱期に、今の大神神社の若宮社(大御輪寺)からこの地に移されて来ました。台座の一部を除けば、造立当時のままのお姿とされます。かつては大御輪寺の御本尊であった十一面観音。慶応4年(1868)5月16日に廃仏毀釈の機運が高まる中、大八車に載せられて三輪から今の地に避難されてきたと伝えられます。
聖林寺の御朱印帖の初穂料は1,200円です。
世は御朱印ブームですよね。拝観記念に押印して頂く御朱印を目当てに、幾歳月もかけて寺社巡りをしている人も多いものと思われます。
拝観受付に聖林寺の御朱印が飾られていました。
聖林寺を象徴する十一面観音の文字が躍ります。
十一面観音は聖林寺のご本尊でこそありませんが、何と言っても国宝仏像です。しかも、第一回国宝指定を受けた24ある文化財の内の一つがこちらの十一面観音様なのです。
見所は寄進コーナー展示の十一面観音光背
十一面観音の残欠光背をご存知でしょうか。
光背とは仏像の背に後光のように輝く意匠のことを言います。ハレーション効果という言葉がありますが、偉大な人物の形容には「後光が差している」というフレーズがよく使われます。あの後光は、仏像の光背に由来しています。
仏像の構成上、光背はとても重要な要素とされます。聖林寺の光背は木心乾漆製で、宝相華文を表す光脚(一番下の部分)が残されていますが、その上の部分の破損状況が甚だしく全体像は不詳とされます。断片化した光背を取り外して、今は奈良国立博物館に寄託されているそうです。
聖林寺十一面観音の光背復原図。
残欠光背や同時代における他の仏像光背を元に、聖林寺十一面観音の光背復原が進められています。
かつての輝きを取り戻した光背。
ちなみに奈良時代には光背を「光」と呼び習わしていたそうです。そのため、今回の復原プロジェクトにおいても、奈良時代の人々の仏への想いを共有するために光背のことを敢えて「光」と呼ぶことになさっているようです。
復原された光をよく見てみると、放射状に光が伸ひびていることが分かります。放射光(ほうしゃこう)、あるいは筋光(すじこう)と呼ばれるタイプの光ですね。
頭光(ずこう)と身光(しんこう)の上下二つに分かれている様子もうかがえます。全体的な形は舟形光に近いでしょうか。
本堂の傍らに新収蔵庫建立のための寄進コーナーが設けられていました。
以前に聖林寺を訪れた時には無かった特設コーナーです。新しい木材を使った掲示板が設えられていました。
十一面観音「光」の西陣織復原図ですね。
かつては四天王にも守られていたという聖林寺の十一面観音菩薩立像。
十一面観音の左右には多くの仏像が並び立ち、御前立観音、そして背面には薬師如来一万体の描かれた板絵と、四方をしっかりガードされていたと伝えられます。十一面観音の光背も、そんな荘厳な空間に相応しい「光」であったことが想像できます。
奈良時代の国宝の降臨です。
しなやかに流れる天衣のライン、動きの感じられる右手指先、そして宝相華唐草の光背と、そのどれを取っても他を圧倒する美しさを醸しています。
あらゆる人の願いを叶え、救いの手を差し伸べるために十一の御顔を持つ十一面観音菩薩。頭上一番上に飛び出す仏面は教えを説く如来だと言われます。前三つが慈悲面、左三つが瞋怒面(しんぬめん)、右三つが狗牙上出面(ぐげじょうしゅつめん)、さらに後ろの一つは暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん)とされます。
現在、聖林寺の十一面観音は収蔵庫(観音堂)に安置されています。
本堂から階段を上がって行った高台に収蔵庫があり、私が初めて拝観した当初からその場所に変わりはありません。地震に耐え得る収蔵庫なのか、以前から気にはなっていたのですが、やはり万全を期すために新たな収蔵庫が建立される予定のようです。
伝統技術の西陣織で蘇る十一面観音様。
蓮華を挿した水瓶を持つ、スタンダードな形の十一面観音像が西陣織の掛軸で現代に蘇ります。
実にお美しいお姿です。
フェノロサや岡倉天心らによって開扉されて以降、多くの人々を魅了し続ける屈指の仏像です。
何も言葉は要りませんね。
三輪の大御輪寺の発掘復元図も案内されていました。
大神神社の若宮社(大御輪寺)と言えば、小さい頃に野球をして遊んだ記憶があります。そんなに広い境内ではないのですが、幼少時には十分な広さに感じられたのでしょうか(笑) オオタタネコの祀られるお社であり、若宮神幸祭や鳥居手前のおだまき杉で知られる神社です。
観音堂(収蔵庫)へと続く階段。
傾斜のある場所で階段が上へと伸びています。木造の本堂とは趣を異にする階段ですが、釣灯籠が掛かり此処も聖林寺の境内であることをうかがわせます。
駐車場近くに鶏頭の花が咲いていました。
奥の坂道を上って行けば、程なく右手に聖林寺の山門が見えて参ります。
聖林寺鐘楼近くの白南天
南天で知られる聖林寺ですが、南天と言えば赤い実を付けるのが常道です。
今回の参拝で驚いたのが、白い実を付ける南天でした。
赤があればやはり白もあるのでしょうか。赤い彼岸花に対する白い彼岸花などは、ヒガンバナの名所・明日香村でよく知られるところです。
ありました、ありました。
白南天が鐘楼の近くで実を付けていました。
ほんのわずかでしたので見つけるのが大変だったのですが、拝観受付の方に教えて頂きながら発見致しました。
拝観受付の手前には白南天の苗が売られていました。
初穂料は200円とのこと、お好きな方は是非試しに購入されてみてはいかがでしょうか。
葉っぱを見れば南天であることに疑いの余地はありません。
南天の葉は、当館でもお料理の飾り付けによく使っています。すぐに萎びてしまう葉も多い中で、南天の葉は非常に強く重宝しています。料理の盛り付けに南天葉を使うのには科学的根拠もあります。南天の葉にはナンジニンという成分が含まれ、殺菌効果があるのです。
除夜の鐘で撞かれる聖林寺の鐘の近くに、白い南天の実が成っています。
鳥の大好物とも言われる南天の実ですが、乾燥させた実には咳止めの効果もあります。”難を転じる南天” は単なる言葉遊びにとどまらず、実用性にも富むようです。
白南天の写真。
なんとか白い南天の実を見ることはできましたが、その数はほんのわずかでした。そのため、たくさんの実を付けた時のお写真を見せて頂きました。たわわに実り、枝垂れている様子が分かります。やはりこちらの方が迫力がありますね。
赤い南天の向こうに海鼠壁を望みます。
海鼠壁(なまこかべ)といえば蔵を思い浮かべるのですが、境内に建つ向こうの建物も倉なのでしょうか。
山門下の境外に、桜井市のマスコットキャラクター「ひみこちゃん」の幟が風になびきます。
桜井市観光協会の会合で、聖林寺のご住職と名刺交換をさせて頂いたことがあります。本日の拝観でお会いできるかなと楽しみにしていたのですが、残念ながらお留守のようでした。
藤原鎌足の長子が建立した聖林寺
聖林寺の歴史は遥か奈良時代に遡ります。
その縁起を辿っていくと、聖林寺から上手に鎮座する多武峰・談山神社との関係が浮かび上がります。
談山神社境内から続く御破裂山には藤原鎌足の墓があります。鎌足を祀る談山神社なわけですが、その鎌足の霊を弔うために鎌足の長男である定慧(じょうえ)が建立したのが他ならぬ談山妙楽寺(談山神社)なのです。妙楽寺が建てられたのは天武天皇8年(679)ですが、その33年後の和銅5年(712)に妙楽寺の別院として創建されたのが聖林寺とされます。
藤原定慧創建の聖林寺は、創建当初は藤原家の氏寺だったのです。
駐車場脇にあった聖林寺の案内板。
藤原家の氏寺から次第に、戒律と祈祷の寺としてその名を知られるようになります。
今でこそ十一面観音のお寺として有名ですが、それまではご本尊の地蔵仏にスポットライトが当たっていました。高さ3.5mを誇る堂々とした体躯の子授け地蔵は江戸時代中期(元禄時代)の石造仏とされます。
丈六の子安延命地蔵菩薩の両脇には掌善童子・掌悪童子が祀られ、ご本尊と共に地蔵三尊の形式をとります。
安産・子宝祈願に訪れる参拝客も数多く、聖林寺の見所の一つとなっています。
うっすらと向こうが透けて見える十一面観音のクリアファイル。
本堂内で他に特筆すべき仏像としては、女性らしい姿を見せる如来荒神像が挙げられます。
荒神が如来の姿で現れた如来荒神。あまり見かけない仏像だったので、至近距離からまじまじと拝見させて頂きました。室町時代の作とされる如来荒神像も、仏像ファンの方にはおすすめですね。
クリアファイル裏側の手の指が浮かび上がります。
やはりこのラインが何とも言えずグッドです。
クリアファイルは白い袋に入れて手渡されるのですが、その袋の背面に聖林寺の紋らしきものが押印されていました。
そういえば、十一面観音の御朱印にもこの印が押されていましたよね。
山門下の木が紅葉していました。
地球温暖化の影響からか、全国的に色付く時期が遅れているようです。太平洋の島々では海面上昇に悩まされ、移住の決断を迫られているようです。海水温度の上昇は以前から言われていましたが、ここへ来ていよいよその海から温暖化のツケが解き放たれようとしています。しばらくの間、急激な気温の上昇も見られませんでしたが、どうやらそれは広大な海が抱え込んでくれていたからだと言います。その海も、いよいよ我慢の限界ということなのでしょうか。
「光」を背にする十一面観音の背中。
この背中は何を物語っているのでしょうか。
威厳に満ちた父親は「背中で物を言う」と表現されます。語らずとも、その何倍ものことを伝えようとしているのかもしれません。十一面観音様も同じように、見る者それぞれに向けてメッセージを発しているような気がしてなりません。
本堂右手前には十三重石塔が建っています。
本堂の内陣は総欅(けやき)造りで、江戸時代中期のものと言われます。どっしりとした体格の子安地蔵を仰ぎながら、この地にかくも大きな仏像が安置されていることに感じ入ります。
奈良交通バス時刻表。
私はいつも聖林寺拝観の際は車でアクセスしますが、遠隔地から来られる旅行客はバスかタクシーが便利だと思われます。JR桜井駅からは少し距離があり、アクセスには少し難があります。時刻表を見ても分かりますが、桜井駅から聖林寺を経由して談山神社にお参りするルートが確立されているようです。
本堂脇の廊下に座布団が数枚並べられています。
眼下には箸墓古墳や三輪山の景色が広がり、聖林寺拝観の見所の一つとなっています。
聖林寺から望む三輪山。
ここからの景色は、そっくりそのまま聖林寺十一面観音の歴史と重なります。
三輪山の麓にある若宮社からこの地に移されてきた十一面観音様を想うと、何か不思議な巡り合わせを感じます。
山門右手に「大界外相」の文字が刻まれています。
江戸時代の梵学研究者・慈雲(じうん)による石碑です。結界を表す言葉の前で、襟を正して一呼吸置いてから山門をくぐります。
本堂に「霊園山(りょうおんざん)」の山号額が掲げられます。
色鮮やかな五色幕が深い仏教の教えへと誘います。お寺の参拝は他のレジャーに比べれば地味なものです。旅行の目的はグルメ、ハイキング、買い物、体験、物見遊山と様々ですが、奈良を訪れる旅行客のほとんどが寺社参拝を目的とされています。
元来が地味な寺社参詣の中にあって、どこか心を晴れやかにしてくれるのが五色幕です。深い意味合いのある五色幕ですが、そんなことには関係なくパッと心が和みます。
本堂外陣に施される彫刻。
雲の上に乗る仏像が描かれているのでしょうか。
境内に煙出しのある建物がありました。
今井町などの古い町家ではおなじみの煙出しですが、聖林寺の境内で見られるとは思いませんでした。
「仏像の中の仏像」と名高い十一面観音。
日本の国宝の半分が関西地方にあり、さらにその中でも国宝の一番多い場所が奈良県とされます。外国人観光客の増加でインバウンド志向が高まる日本ですが、外国人観光客の興味の対象はあくまでも世界遺産(World Heritage)です。日本の宝である国宝(National Treasure)にももう少し注目して頂きたいと思う昨今です。
聖林寺境内の喫茶処。
見晴らしのいい高台にある聖林寺だけに、この喫茶処からの眺めもいいのではないでしょうか。残念ながら私が訪れた日は営業なさっていないようでした。
大和盆地の東のラインを見下ろす境内。毎年1月に行われる若草山焼きの際には、赤い炎が北の空を染めて燃え上がる様子が映されます。今年は若草山焼の日に奈良県庁屋上が開放されるようですが、遥か南の聖林寺から眺める山焼きも風情があっていいのではないでしょうか。
聖林寺の拝観時間は午前9時~午後4時30分(年中無休)となっています。
車でのアクセス方法ですが、国道165号線薬師町交差点を南へ2.2㎞で駐車場も完備されています。最寄駅のJR桜井駅南口からは多武峯・談山神社行きに乗車して10分、聖林寺前下車徒歩3分となっています。
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