田原本町の大字矢部に伝わる勧請縄。
秦楽寺から真っ直ぐ西へ進み、飛鳥川を越えた辺りに矢部の集落があります。矢部観音堂のある杵都岐神社から南へ行くと、集落の南端に綱が掛かっていました。
矢部の綱掛。
二本の木に渡された綱はまだ真新しいものでした。
毎年5月5日の子供の日に綱掛行事は行われます。私が訪れたのは5月中旬で、伝統行事のすぐ後だったようです。
豊作と邪霊退散を祈願!牛の版画と鍬鋤模型
矢部の綱掛は降雨と豊作を祈願する祭です。
奈良盆地は雨の少ない地域です。矢部地区も例外ではなく、水不足には悩まされていたようです。田植えの時期も周りと比べ遅かったと言います。そう言えば、秦楽寺から飛鳥川へ向かう途中にも溜池がありました。奈良盆地に多く見られる溜池は、農業用水としての役目も担っていました。
綱の真下に石が二つ並んでいます。
一本の長い藁縄の下に、無数の藁が垂れ下がります。勧請縄は桜井市内でも幾つか見てきましたが、これだけ密に藁が並んでいるのは珍しいのではないでしょうか。
田原本町には、矢部の綱掛の他にも豊作を祈願する「蛇巻き」行事が伝わります。今里と鍵の蛇巻きもその性格は似ており、地域住民が結束する大切な場です。
蛇巻き行事は、蛇に見立てた縄で人々を巻き付けながら練り歩きます。慶事のあった家々を巡りながら、幸が分配されていくのでしょう。とても和やかで、後世まで守り伝えたい民俗行事だと思います。
矢部の綱掛の案内板。
随分傷んでいましたが、抜粋致します。
矢部の綱掛は米や麦が豊作でありますように、また邪霊がこの村に入らないようにと祈願するお祭で、江戸時代から続いているようです。
戦前は地主がお祭していましたが、戦後は村中の人が隣組単位でお祭しています。
5月4日、当番の隣組全員で、綱と各家に配る牛の版画と鍬鋤の模型を作ります。
5月5日午前、当屋の家に隣組全員が集まり、自治会役員、僧侶が参加して会食をします。その後、一同は綱を担いで伊勢音頭で囃しながら村中を練り歩き、過去1年間に婿嫁を迎えた家、自治会役員宅、昨年と次年度の当屋宅等に綱を持ち込んで祝い、家の人を綱で巻きます。その後、村の南端小字ツナカケにある木に綱を掛け、稲苗・御神酒、牛の版画、模型の唐鋤、馬鍬、鍬、鋤を竹籠に入れてお供えし、僧侶の読経があります。終了後、牛の版画と鍬鋤は各家庭に~
最後の文章が途切れていますが、おそらく各家庭に配られるのでしょう。
綱掛の脇にあった道標。
多神社や多遺跡も案内されていますね。同じ方向に団栗山古墳もあるようです。古墳時代後期の古墳ですが、現在は柿畑になっているようです。
ここから矢部の集落内へ戻れば、絹本著色融通念仏縁起図(重要文化財)を所蔵する安楽寺もあります。さらに北へ足を延ばせば、薬王寺の楠の巨樹へもアクセス出来ます。
まるで櫛(くし)の歯のようですね。
邪霊の侵入も防ぐ綱ですから、明日香村稲渕に伝わる綱掛神事にも通じます。
矢部の綱掛から南へ少し歩きます。
左手に見える社叢は多神社でしょうか。反対側の右手にこんもりしているのが団栗山古墳なのかもしれません。
改めて田原本は平地だなぁと思います。私の住む桜井市は凹凸の多い地形ですが、田原本は全体的に平野部が占めます。四方に視界が開け、かなり遠くまで見通すことができます。
道路や川に渡されることの多い勧請縄ですが、矢部の綱掛は曲がり角にひっそりと掛かっていました。
昨今は核家族化で当屋制度を維持するのも難しいようですね。
杵都岐神社での綱作りから行事は始まりますが、綱の作り方も人から人へと伝承されます。親から子へ伝わっていたものが、徐々にその機会も失われつつあります。各家庭に配る牛の版画やミニチュア農具作りは現在、矢部公民館で公開されています。
矢部越木塚方形周濠墓群。
矢部の綱掛から西の方向に案内されていました。
これがおそらく多神社の社叢だと思われます。
その向こうにも山々が連なります。大和は「山処、山都(やまと)」などと申しますが、本当に山の多い場所ですね。
京奈和自動車道の東に見える小杜。
憶測の域は出ませんが、おそらく団栗山古墳でしょう。
電柱表示の「サミ」。
矢部集落の南端にありましたが、田原本町佐味のことですね。京奈和自動車道を挟んで矢部と反対の、西側に広がる集落です。
連綿と受け継がれる矢部の綱掛。
親から子への継承が難しくなった今、その運営手順は申し送り書や写真で代用されているようです。様々な工夫を施しながら、今後もずっと伝承されていくことを願います。
長閑な風景が広がります。
矢部の綱掛は田原本町の無形民俗文化財に指定されています。
こうした行事を通して、地域のつながりが維持されてきた歴史があります。辻々に立つお地蔵さんや集落入口の勧請縄など、悪いものが入ってこないようにとの願いも込められます。
昨今のコロナ禍で、改めて世界の結束力が試されているような気がします。
EUの不協和音やアメリカファーストなど、気になる側面はありますが、パンデミックの時こそ自国優先は避けなければなりません。お互いを思いやる心が、今ほど大切な時はないのかもしれません。