田原本町の鍵の蛇巻き。
記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に指定されています。
国道24号線の鍵交差点を西へ入ってしばらく進むと、左側に田原本北中学校が見えてきます。学校の門の前に「はったはん」と呼ばれる場所があり、そこの大樹根元に大きな稲藁が置かれていました。
鍵の蛇巻き。
目の前の大きな稲藁は200kgもあり、蛇の頭の部分に相当します。
町中を練り歩く際には、頭持(かしらもち)と呼ばれる氏子たちがその移動を担当します。
男子の通過儀礼!はったはんの降り龍
鍵エリアの南西方向の矢部地区では、5月5日に綱掛神事が行われます。
豊作祈願と共に、男の子の成人を祝う農耕儀礼の行事で、その目的は鍵の蛇巻きと同じです。
鍵の降り龍。
同じく無形民俗文化財に指定される今里の蛇巻きが昇り龍であるのに対し、鍵の蛇巻きは降り龍と呼ばれています。その理由は写真をご覧頂ければお察しの通り、頭を下にして胴体が上に吊るされていることに由来します。
今里の蛇巻き・鍵の蛇巻きは、旧暦5月5日の端午の節句にちなんだ行事です。男の子が成人になることを祝う通過儀礼の要素も含まれています。
200キロ近い頭部を17歳の少年と当屋が一緒に担ぐ慣わしで、その後ろの綱を参加した全少年が先頭の頭部の前進を阻むように、綱引きの要領で引っ張り合いながら道中を進んで行きます。進みたくても進めない、一人前の大人になるための試練が課されているのかもしれませんね。
鍵の蛇巻きの案内板。
八坂神社の南西方向にある通称「はったはん」に、鍵の蛇巻きの案内板がありました。
「はったはん」は三角州のようなY字路に位置しています。中学校の真ん前で、生徒たちの元気な声が聞こえてきます。
立派な蛇(龍)の頭部です。
昔から人々は、水を司る龍の存在に畏敬の念を抱いてきました。
京都の大きな寺院の天井画にも龍がよく描かれていますよね。木造建築の敵である火を退治する「水」を連想させる龍は、龍神信仰とも相まって人々の間に根付いてきました。
こちらが「昇り龍」と呼ばれる今里の蛇巻き。
鍵の蛇巻きからは北西方向にあり、徒歩5分ほどの距離でしょうか。
練り歩きの道中で蛇に巻き込まれた人は、無病息災のご利益にあずかれると伝えます。
蛇の神様といえば三輪の大神神社を思い出すのですが、田原本町界隈にも立派な蛇の神様が鎮まります。
鍵の町に鎮座する八坂神社。
祭りの当日に、八坂神社の境内で三軒の当屋と17歳までの男の子が蛇(龍)を作ります。
今里の蛇巻きと同じく、ミニチュアの農具模型も作られ、どさん箱に入れて供えられます。神主さんが神前で龍を祓い清め、その後に子供たちが元気よく担ぎ出します。
鍵から今里へ続く下ツ道(中街道)。
道の色が変わっているので、ここがウォーキングロードであることが分かります。
唐古・鍵の道路プレートが埋め込まれています。
国道24号線を挟んで東側には、国史跡に指定される弥生時代の唐古・鍵遺跡があります。
蛇巻き行事の由来を記しておきます。
その昔、今里に雄の龍が居て農作物を食い荒らし、若い娘や赤ちゃんまでもが犠牲になっていたそうです。まるで神話の世界の八岐大蛇(やまたのおろち)伝説が思い起こされます。
そこへ通りすがりの一人の僧が、村人たちにアドバイスを送ります。5月の節句に菖蒲の太刀を作って家々に飾ると良いというものでした。
通りすがりの僧の助言に驚いた龍は、中街道の榎の上に隠れてしまいます。
一方の鍵の村では、大きなムジナ(狸でしょうか)が出現して、田畑を荒らしていたそうです。そこへ今里の龍がやって来て、東の藪でムジナと喧嘩をして殺してしまったと伝えられます。
喜んだ村人はその藪に龍を祀り、蛇巻きの行事をするようになったというお話です。
無形民俗文化財が今も息づく田原本町の今里・鍵エリア。
斑鳩町から飛鳥へ抜ける太子道周辺には、外国人観光客が興味を抱くであろう”日本歴史の縮図”があちこちに見られます。