天誅組鳥ヶ峰古戦場

高取町役場の古戦場跡石碑。

高台にある高取町役場は見晴らしも良く、大砲を据える場所として適していたのでしょう。幕末に活躍した天誅組の遺跡として語り継がれます。

天誅組鳥ヶ峰古戦場

天誅組鳥ヶ峰古戦場の石碑。

高取町役場の敷地内に建っていました。

尊王攘夷運動に奔走した天誅組は、奈良県内に数多くの足跡を残しています。天誅組終焉の地は、東吉野村の鷲家口ですね。総裁の一人・吉村寅太郎の墓が、今も鷲家川の畔にひっそりと佇んでいます。吉野の山中へ逃げ込む前に、ここ高取が戦地となったようです。

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大砲で応戦した高取藩!天誅組敗走の歴史

当初、高取藩は天誅組に服する態度を取っていたようです。

ところが、大義名分を失った天誅組を見た高取藩は翻意します。味方に付いたり敵へ翻ったりと、昔の戦は“腹の読み合い”だったに違いありません。天下分け目の関ヶ原の戦いなどもそうでしたよね。

鳥ヶ峰古戦場の案内板

鳥ヶ峰古戦場の案内板。

文久3年(1863)8月17日天誅組は、倒幕の狼煙を上げるため五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、高取藩はここ鳥ヶ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防禦追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました。

天誅組による五條代官所襲撃。

天誅組の本陣跡・櫻井寺へ行けば、今も五條代官・鈴木源内の生首を洗ったとされる“石手水鉢”を見学することができます。

五條代官所を襲撃した後、高取城へと進軍した天誅組の総勢はおよそ1,000名だったと伝わります。迎え撃つ高取藩はおよそ150名。数で劣る高取藩でしたが、藩が誇る大砲「権現砲」を放って天誅組を敗走させることに成功しました。

高取町役場

高取町役場。

役場から背後へ下ると、高取中央公園のグラウンドがあります。駐車場も整備され、道を挟んで高取町リベルテホールがありました。リベルテホールには図書館が整備され、大砲「ブリキトース砲」の復元模型も見学できます。

高取中央公園のグラウンド

高取中央公園のグラウンド。

おそらくこの辺りも戦場になっていたのでしょう。

天誅組鳥ヶ峰古戦場

高取藩の大砲攻撃で一度は敗走した天誅組。

夜になって、吉村寅太郎率いる別働隊が夜襲を企てます。薩摩(高取町薩摩;役場の西方)まで進軍し、警戒していた高取藩士と薩摩の木の辻周辺で再戦を交えます。この際、吉村寅太郎は味方の鉄砲玉に当たって負傷し、敗走を余儀なくされたと伝わります。

高取町役場

高台にある高取町役場。

自然の地形を生かした古戦場だったことがうかがえますね。現場は近鉄壺阪山駅のすぐ近くです。

数年前に高取町佐田の「佐田タカヤマ遺跡」で狼煙台の跡が見つかりましたが、佐田も丘陵地です。高市郡高取町には、戦における重要な役目を担った場所が多いような気がします。

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