東大寺塔頭の知足院。
般若寺の水仙を観賞した後、奈良少年刑務所、五劫院を経由して東大寺知足院へと向かいます。
知足という言葉から、京都の龍安寺つくばいを思い出しますが、おそらくその意味するところは同じなのでしょう。
東大寺知足院の本堂。
本堂へ続く石段の最上部を枠の中に捉えます。
ナラノヤエザクラの原木!知足院本堂の華頭窓
知足院は境内の奥にあり、”東大寺奥の院”といった趣です。
”奈良の八重桜”の原木も植えられ、奈良県にとっても大変貴重な場所だと思います。
山門へ続く石段。
歴史の風格を漂わせる長い石段です。
どこか白毫寺の山門へ続く石段を思わせます。鄙びた風情が独特の間(ま)を産み、タイムポケットに落ちていくような錯覚に陥ります。
五劫院から東大寺知足院へ続く緩やかな坂道を登って行くと、右折ポイントに道標が立っていました。今来た道が般若寺方面、これから向かう先が正倉院方面になります。
柵が見えていますが、柵の中は正倉院の敷地です。
この辺りは奈良奥山ドライブウェーの入口付近になります。
若草山山頂へ続いており、鶯塚古墳へのアクセスもこの道を辿ることになります。
山門の表札を見てみると、東大寺塔頭の知足院と書かれています。
東大寺大仏殿から北へ徒歩5分ほどの場所にある知足院は、東大寺境内で最も北に位置する塔頭寺院です。東大寺の奥の院といった風情の知足院界隈には観光客の姿もあまり見られません。大仏殿周辺はあれほど多くの観光客で賑わっていたのに、この静けさは何だろうか?思わずそうつぶやいてしまう程の静寂が包み込みます。
立派な本堂です。
法相宗の研究道場であった知足院。
890(寛平2年)の創建とされ、ご本尊は鎌倉時代の仏像・木造地蔵菩薩立像です。文使い地蔵とも呼ばれるご本尊は秘仏として知られ、年に一度だけ、7月24日の地蔵会の日のみ御開帳されます。
本堂向って右側に石地蔵が立っていました。
お地蔵様は地獄の果てまでも救済の手を差し伸べて下さいます。六道輪廻の世界観の中で、どこへ行っても地蔵菩薩の慈悲を感じることができます。
それにしても、なぜ「文使い地蔵」と呼ばれているのでしょうか?
その理由を抜粋致します。
治承4年のこと、平重衡の軍勢によって焼かれた大仏の再建で、造寺の長官を勤めていた佐大辨の藤原行隆が大任を果たした後、無理がたたって亡くなってしまいます。
嘆き悲しんだ娘が毎日毎日お地蔵さんにお願いしていたら、7日目の朝に、お地蔵さんの手に文(ふみ、手紙)が握られていました。びっくりした娘が文を取り上げて見ると、それは紛れもなく父行隆の字で、兜率天(とそつてん)の観音様の元にいると書かれていました。
最愛の亡き父からのメッセージだったのでしょうね。
本堂に近寄ってみます。
誰も居ない境内で、あらゆる角度から知足院の表情を切り取ります。
こちらは鐘楼。
世界遺産東大寺の中にあって、観光客の目に触れる機会も少ないであろう知足院。その奥ゆかしさは、おそらくこの鐘の音にも反響していることでしょう。
本堂の手前に放水銃らしきものがありました。
木造建築の大敵である火への備えは万全のようです。
地面に目をやると、四方八方に矢印の付いた「防災」の文字が見られます。
本堂を飾る花頭窓(かとうまど)も、防火を意識した「火灯窓(かとうまど)」という表記に代えられることもあります。屋根の妻飾りの懸魚(げぎょ)などにも、魚の尾っぽから水を連想させる働きがあります。火を懲らしめるには水が一番、という考え方は今も昔も変わらないようです。
こちらは消火栓ですね。
東大寺の寺域内でよく見られるタイプの消火栓です。
本堂向かって両側に見えているのが火灯窓です。
炎の先っぽをイメージさせます。
知足院は奈良の八重桜(ナラノヤエザクラ)の原木が植わっていることでも知られます。
遅咲きのナラノヤエザクラは、大正12年に国の天然記念物に指定されています。奈良公園の鹿なども国の天然記念物に指定されていますが、ナラノヤエザクラの存在を知る人はそう多くはないでしょう。
屋根瓦にも知足院の文字が見られます。
奈良県の花であり、奈良市の花でもある奈良の八重桜。満開に咲き誇り、見頃を迎えているタイミングで一度訪れてみたいものです。
鹿の防護ネットが無造作に剥がれていました。
奈良公園の鹿はこの辺りにも上って来るんでしょうね。
若草山の山頂にも居ることを考えれば、知足院に居てもおかしくはありません。奈良公園の鹿の行動範囲が話題になっていますが、野生の鹿との共存を考える時期に来ているのかもしれません。
知足院から東大寺大仏殿へと向かいます。
道の右側が正倉院です。
東大寺の大仏がすっぽりと収まる大仏殿の屋根が見えています。東大寺境内を隅から隅まで歩くなら、ここ知足院まで足を運ばれることをおすすめします。