五條市須恵町にある統(すえ)神社。
国道24号から北へ少し入った所に鎮座しています。南の吉野川を見下ろすように祀られていました。五條の歴史を物語るには外せない神社でしょう。
五條市須恵の統神社。
「統神社」とは、名前が目を引くお社ですね。
「統べ(すべ)」は天照大神を表すようです。御祭神が誉田別命(ほんだわけのみこと)に代わってからも、その名前が残りました。スベが地名の須恵と重なり、「スエ神社」と呼ばれるようになったようです。
古代陶工集団の居住エリアか!五條代官所の遺構『花高稲荷』
須恵という地名から連想するのが須恵器ですよね。
歴史を紐解けば、6世紀初めからこの辺り一帯で須恵器の生産が始まったようです。7世紀から8世紀にかけては瓦の生産も盛んに行われ、その多くが飛鳥の諸寺院や藤原京の建設に用いられたと言います。
五條市西河内町まで足を延ばせば、須恵器や瓦を生産していたという荒坂瓦窯跡があります。
本殿右横の猿田彦神社。
道祖神のサルタヒコが祀られていました。
谷村新司の名曲『昴』をご存知の方は多いでしょう。
昴とはプレアデス星団のことです。昴の語源は集まって一つになるという意味の「統る(すばる)」に由来しています。数個の星が“統(す)べられて”いるように見える“昴”。統一のニュアンスに近いアマテラスに寄り添うサルタヒコ・・・実のところ、伊勢神宮の近くにも猿田彦が祀られていますよね。
五條市須恵。
国道24号と県道170号が交わります。ここから国道を西へ進むと、統神社にアクセスします。
統神社の石鳥居。
駐車場はありませんので、徒歩で向かいましょう。
よく天皇のことを「皇尊(すめらみこと)」と言いますが、この「すめ」も「皇(すべ)」と同じ意味を持っています。いずれも一つにまとめ、支配することですよね。
統神社の手水舎。
四角い方は井戸でしょうか。
「史蹟統神社」の石標。
丘陵の上に築かれ、古来より町を見下ろしてきたのでしょう。
はっきり読み取れませんが、「伊勢 両神宮」と刻まれているのかもしれません。
統神社の拝殿。
この後ろに本殿が控えています。瑞垣には奉納者の名前が並びます。
五條氏子会。
拝殿向かって左には花高稲荷が祀られていました。末社の琴平神社や市杵島姫神社、木花咲耶姫神社なども垣間見えます。
花高稲荷。
統神社からさらに西へ行くと、天誅組ゆかりの櫻井寺があります。
この社殿は、かつての五條代官所の遺構なんだそうです。
尊王攘夷運動に揺れた幕末の日本・・・尊王攘夷とは、要するに天皇を敬い、外国人を日本から追い払うという政治思想です。最終的には壊滅する天誅組ですが、その天誅組が焼き払った五條代官所の焼け残りです。
花高稲荷の由緒が案内されていました。
幕末の文久3年(1863)8月17日、中山忠光を主将とした吉村寅太郎ら攘夷派浪士約40名で組織された天誅組は、河内長野より千早峠を超えて五條に入り、夕刻、五條代官所に討ち入りました。
その夜、代官所は焼失したものの、代官所内にまつられていた稲荷神社は延焼を免れ、後に統神社に移設されたと伝わります。
小社殿の背面には、代官内藤杢左エ門をはじめ手代や手付ら十名が嘉永4年(1851)2月初午に、この社殿を寄付したことが墨書されています。内藤杢左エ門は、天誅組に殺害された当時の代官鈴木源内の2代前の代官で、天誅組の変の約12年前に社殿を寄付したことになり、五條代官所の遺構として注目されています。
拝殿向かって右には猿田彦神社。
遠く下界に、五條イオンが見えています。
猿田彦の神域。
道先案内人、先導役のサルタヒコが単独で祀られていました。
こちらは琴平神社ですね。
五條市須恵の統神社。
五條の歴史を遡るとき、必ず触れておかなければならない神社です。JR五条駅からは徒歩7分ほどです。是非一度、足を延ばしてみましょう。