孝元天皇を祀る牟佐坐神社@橿原市見瀬町

近鉄吉野線岡寺駅のすぐ西側に牟佐坐神社が鎮座しています。

読み方は牟佐坐(むさにいます、或いはむさにます)です。鎮座地は見瀬(みせ)町で、見瀬は牟佐の転訛とされます。長い歴史の中で言葉が訛り、いつの間にか見瀬という地名が生まれたようですね。

牟佐坐神社

牟佐坐神社の鳥居と拝殿。

近鉄線路を挟んで反対側には、奈良県下最大の墳丘を誇る見瀬丸山古墳があります。国史跡にも指定される丸山古墳には、武遮墓(むさのはか)という別名があります。現在では見瀬という地名で知られるエリアですが、どうやら古代にはムサ(牟佐・身狭・身射)と呼ばれていたようです。

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欠史八代の天皇を御祭神とする式内大社

牟佐坐神社の御祭神は、高皇産霊命孝元天皇です。

菅原道真を祀っていた時期もあり、様々な変遷を経て現代に至ります。

天皇の系譜で言えば、孝元天皇は第八代の天皇に当たります。しかしながら、系譜は存在するもののその事績が記されていないことから、存在自体が疑問視されている天皇でもあります。

牟佐坐神社拝殿

牟佐坐神社拝殿。

神社名にもある牟佐という古代地名ですが、薔薇の名所・橿原市おふさ観音の「小房」の元になっているかもしれないという推察があります。つまり、小房は「小身狭」の転訛形ではないかとする説です。てっきり ”おふささん” という人名に由来するものだとばかり思っていましたので、素直には受け入れ難い面もありますね(笑) まぁこういう見解は色々あってこそ面白いものなのかもしれません。

孝元天皇軽境原宮址

孝元天皇軽境原宮址碑

岡寺駅近くの踏切手前・・・そこに、軽境原宮(かるのさかいはらのみや)跡伝承地石碑が建っていました。踏切の向こうに見えている杜が、孝元天皇を祀る牟佐坐神社です。

現在、孝元天皇の御陵は橿原市石川町の剣池にあります。そして、牟佐坐神社の境内地こそが孝元天皇の即位した場所と伝えられます。牟佐坐神社の起源に関しては、この地に生雷神(雷公)を祀った5世紀中頃に遡ると言われています。

牟佐坐神社の社号標

式内大社牟佐坐神社の社号標。

踏切からさらに東側には、歴史を感じさせる社号標が建っていました。

近鉄橿原線踏切

この道を真っ直ぐ行けば、牟佐坐神社の石鳥居に突き当たります。

駅に近い場所だけあって、人や車の往来が激しい場所です。

近鉄岡寺駅

踏切から左に目をやれば、岡寺駅のプラットフォームが見えています。

橿原神宮前駅~岡寺駅~飛鳥駅と続く近鉄吉野線の路線ですね。

踏切を越えてさらに西へ向かうと、高取川に架かる橋が見えて参ります。

天神大橋

天神大橋

18世紀初めの享保の頃には、菅原道真公を御祭神としていた時代もありました。その名残なのか、橋の名前に”天神”の文字が見られます。天神大橋を渡ると、もうそこは牟佐坐神社の境内地です。

牟佐坐神社鳥居

牟佐坐神社の一之鳥居。

アクセスに迷うこともないでしょう。

何せ「駅前神社」です。岡寺駅の目と鼻の先にご鎮座なさっています。

牟佐坐神社の境内社

一之鳥居の左脇に境内社が祀られていました。

千木と勝男木を載せた小さな社殿が並び建ちます。

牟佐坐神社の石碑

うん?これは柿本人麻呂の歌碑でしょうか。

人麻呂の妻が天国に召された後、悲しさのあまりに慟哭と共に詠まれた長歌のようです。

牟佐坐神社の石燈籠

一之鳥居の手前には、かなり大きな石灯籠が建っています。

川を挟んだ対岸には、近代的なマンションが建設されています。

牟佐坐神社の石段

牟佐坐神社へと続く石段。

石段の上に見えているのが二之鳥居ですね。

牟佐坐神社拝殿

二之鳥居をくぐると、拝殿が出迎えてくれます。

白い前掛けをした狛犬が二体、拝殿前に陣取っていました。魔除けの意味を込めた赤い前掛けが一般的ですが、牟佐坐神社の狛犬のそれは白色でした。

牟佐坐神社の御祭神

御由緒が記されます。

残念ながら滲んでいてよく見えませんね。

今は飛鳥坐神社の宮司が、見瀬町に鎮まる牟佐坐神社の管理もなさっているようです。

牟佐坐神社の狛犬

拝殿の四周には、14面から成る百人一首絵馬(橿原市指定文化財)が掲げられていたそうです。

弘化3年(1846)に画師南岳によって描かれたもので、完形の百人一首絵馬としては全国に2例しか存在しません。大変貴重な文化財なのですが、通常は非公開になっているようです。

今回の参拝は「謎の巨石と古墳めぐり」の冒頭を飾るものでした。この後、行路は沼山古墳~益田岩船~小谷古墳と続いていきます。

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