織田家菩提寺の専行院(せんぎょういん)にお参りして来ました。
織田有楽斎の墓があることで知られるお寺ですが、本堂前の阿弥陀石棺仏(鎌倉時代中期)など見所も幾つか散りばめられていました。専行院の周辺には観光スポットが集まります。北には黒塚古墳、東へ行けば伊射奈岐神社や崇神天皇陵にアクセスします。
天理市柳本町の専行院。
本堂内には織田有楽斎の念持仏・達磨大師座像が祀られています。
最寄駅はJR万葉まほろば線柳本駅で、駅から徒歩5分ほどの距離です。駐車場も完備されていますので、車でのアクセスも可能です。
面長な阿弥陀来迎像!蓮華座に立つ石棺仏
本堂前に立つ阿弥陀石棺仏が一際目を引きました。
高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫り窪め、厚肉彫りの阿弥陀様が浮かび上がります。面長にして細身、大きく裾広がりにつくった裳裾などから、建治2年(1276)の光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風とされます。
専行院の阿弥陀石棺仏。
本堂と向き合うように立っていました。
専行院の蓮池。
鐘楼の左横に大きな石碑が見えますね。
修陵餘潤之碑(しゅうりょうよじゅんのひ)と呼ばれ、12代藩主信成公への感謝を込めて建立されています。
専行院では毎年7月の第二日曜日に藩主祭が催され、東京から織田藩の当主を招いて法要が行われます。歴代藩主・第12代織田信成公の時代に、荒廃した崇神天皇陵周辺の修復工事が行われたようです。その際、信成公は周濠の水で近隣住民のために水利を図ったと伝わります。
潤沢な水の恩を受けた周辺の農民たちが田植えの後、専行院に集まって法要を始めたそうです。今もその法要は続いており、大きな石碑に感謝の気持ちが込められています。
崇神天皇陵の周濠。
元来、崇神天皇陵の周濠は小さかったといいます。織田藩によって周濠が拡大されたのですね。
専行院の山門。
ちょうど伊射奈岐神社の参道沿いに位置します。山門向かって右手へ進めば、かつての柳本藩が崇敬した伊射奈岐神社があります。
浄土宗のお寺のようです。
山号は「松庵山」。
浄土宗知恩院の末寺として法灯が受け継がれています。
山門を入って右手にある鐘楼。
その手前に水子地蔵、左横には納骨堂が控えています。
奉納旗が風に揺れます。
子育てにもご利益があるのでしょう。
専行院の縁起は詳らかではありませんが、天正12年(1584)に土地の豪族・楊本源次郎範宣の本願により、圓誉上人を開山として開かれたようです。
その後、関ケ原の戦いの軍功により、織田信長の弟・長益(有楽斎)が3万石を知行しました。元和元年(1615)に至り、長益の五男・尚長がその内の1万石を拝し、初代柳本藩主となります。
その翌年の1616年には、柳本に陣屋を構えることになります。現在の柳本小学校のある場所ですね。ちなみに柳本の陣屋は、現在橿原神宮の文華殿として移築復元されています。
柳本に陣屋が出来た頃から、専行院は織田家の菩提寺として厚遇されるようになったそうです。
専行院の蓮池。
山門入ってすぐ右手にありました。
花ハスの時期は過ぎていましたが、かろうじて水面に睡蓮らしき花が浮かんでいます。
綺麗なスイレン。
専行院の歴史はそこから一転します。
元禄15年(1702)に柳本大火災に遭い、本堂、庫裡共に焼失してしまいます。その後、宝永3年(1706)に第7世行誉上人により再建され、維新後は町民の檀那寺として今に続いているようです。
境内片隅の石仏群。
おそらく無縁仏も並んでいるのでしょう。
専行院納骨堂。
納骨堂のすぐ左手には、永代供養墓や織田家歴代藩主の墓所が控えています。
織田家歴代藩主の墓所にお参り
織田家一族の墓と言えば、桜井市芝の慶田寺を思い出します。
慶田寺の近くには織田小学校があり、小学校の隣りに建勲神社が鎮座しています。境内には織田信長像も建立され、織田家の足跡を偲ぶことができます。専行院の近くがかつての柳本藩で、桜井市の方は芝村藩ということになりますね。
専行院の織田家歴代藩主の墓所。
二基の石燈籠を従えた墓石です。宝篋印塔でしょうか?ブロック塀を背に、ずらりと歴代藩主の墓が並んでいるのですが、どれが織田有楽斎の墓なのか見分けがつきません。
こんな感じで一列に並んでいます。
墓石に刻まれた文字を読もうとするのですが、戒名らしきものばかりでよく分かりません。
どれも歴史を感じさせる佇まいです。
慶田寺の墓所に比べれば、やや小振りです。それでも、歴代藩主の墓というだけで威厳に満ちているような気がしますね。
専行院の寺紋。
杏葉紋(ぎょうようもん)ですね。北九州地方の家紋に多く見られ、大友氏が愛用したことで知られます。浄土宗の開基・法然上人は大友氏につながる家系から出ています。そのため、浄土宗の寺紋も杏葉紋とされます。
阿弥陀石棺仏の横にも、小さな石仏群が並びます。
築地塀の向こうに見えている山は、甘南備の三輪山です。
阿弥陀石棺仏に太陽光が差し込みます。
これぞ、本物の後光ですね。
よく見てみると、舟型に彫り込まれた阿弥陀様の背後にも”後光”と思しき筋が見られます。それにしても、随分スマートな阿弥陀像です。でっぷりとした阿弥陀様に慣れ親しんでいるためか、ちょっとした違和感を覚えます。細い首に優しい撫で肩・・・専行院の阿弥陀仏ならではですね。
伊射奈岐神社の社号標。
専行院の山門から西へ数分の場所に建ちます。
柳本初代藩主の織田尚長は、伊射奈岐神社を産土神としていたようです。
伊射奈岐神社の拝殿。
拝殿手前左側には、織田家ゆかりの建勲神社も祀られていました。
かつては「柳本藩社」とも称した伊射奈岐神社。織田家との強い絆を感じます。
天満宮の石燈籠。
燈籠の竿には「天満宮」の文字も見られます。
柳本藩社と呼ばれていた頃よりもさらに昔、今の社地から南東の山田垣内に鎮座していたと伝わります。当時は「楊本天満宮」と称し、伊邪那岐神と菅原道真を主祭神と仰いでいました。道真ゆかりの牛像も境内に数体見られ、天神信仰の一端を垣間見ることができます。
この辺りは専行院を中心に、織田家の歴史を感じることのできるエリアです。