桜井市芝にある建勲神社にお参りして来ました。
建勲(たけいさお)神社と言えば、織田信長を祀る神社として有名ですよね。
京都の船岡山に鎮座する建勲神社を訪れたこともありますが、稀代の戦国武将が手厚く祀られていたことを思い出します。奈良県内にも織田氏一族の足跡が残されていて、織田小学校横の建勲神社もその内の一つです。
建勲神社の織田信長公座像。
数年前にお参りした時には無かった信長の像です。やはり信長様が目に見える形でいらっしゃると、自然と境内も引き締まります。
芝村藩陣屋跡&『しんちょこさん』
芝プールや芝運動公園で知られる奈良県桜井市の芝。
三輪山麓に住む私ですが、「芝」は小さい頃から慣れ親しんだ地名です。
歴史を紐解けば、かつて芝は岩田村と呼ばれていました。岩田村は「祝田村」で、三輪山祭祀の神田も検出されたと言います。神山・三輪山との深いつながりが感じられますね。
春日造の建勲神社。
御祭神は織田信長です。
かつての織田藩屋敷は、桜井市内の戒重村にあったと伝わります。
現在の春日神社(桜井市戒重)一帯が織田藩屋敷だったそうです。その後、戒重村から芝村に移された藩屋敷ですが、今の織田小学校はその跡地に建てられています。
織田小学校の周囲を歩いていると、こんな石垣を見つけました。
ちょうど東方に見えているのが三輪山です。
盛り土の外側を石で覆っているのでしょう、推測の域は出ませんが、おそらく芝村藩陣屋の土塁跡だと思われます。織田小学校の北方にあるホケノ山古墳周辺では、的場姓の表札が散見されます。近くにお住いの方にお伺いしたことがあるのですが、矢を射る練習場があったから的場姓が多いのだそうです。
『信長公祭 しんちょこさん』のポスター。
来たる7月2日に織田小学校西隣の建勲神社境内でお祭りが行われるようです。
おそらく信長公を音読みしているのでしょう、『しんちょこさん』とは何ともユニークな呼び名ですね。
建勲神社の社号標。
こちらの社号標も初めて拝見致しました。どうやら平成25年7月に建立されたもののようです。
神社入口から見ても分かりますが、建勲神社は公園の中にあります。まぁ神社が先で、公園が後だったと思われますが、庶民に近しい神社であることがうかがえます。真正面に見えている建物は社務所です。
シーソーの北側に信長公が座していました。
その左側に建勲神社の社殿と、あまり他所では見られない構図ですね。
玉垣に囲われて、お馴染みの口髭をたくわえた信長様がこちらを見つめます。
ちょっとドキッとしました!
織田芝村藩の初代藩主は織田長政です。
織田長政は、信長の弟・有楽斎の子に当たる人物です。
織田家の末裔が脈々とその血筋を残していったのですね。
建勲神社からも程近い場所に、織田家菩提寺の慶田寺があります。事前予約さえすれば、仏像拝観もできる曹洞宗のお寺として知られます。
戒重村から芝村に移って来たのは、7代藩主輔宣の時代だったと言います。
移転後に土塁や濠を築き、盤石の陣屋が完成するに至ります。
片側に2人ずつ、合計4人乗りのシーソーですね。
前に乗ったり後ろに乗ったりとしながら、自然に物理の体験学習ができそうです(笑)
信長公を仰ぐ建勲神社。
鉄板で葺かれていますね。すぐ右隣りが小学校ということもあり、児童の元気な声が聞こえてきます。
こちらは建勲神社の左隣りに祀られる稲荷神社。
御祭神は保食神とされます。神明鳥居から少し高い所に祀られていました。
神前に寄ってみます。
地元では「玉塚稲荷」と呼ばれているようですが、鎮座地の桜井市芝字玉塚に由来します。
稲荷神社の社号標。
建勲神社の入口に並んで建っています。
「玉塚いなりさん」。
こちらも同じく、平成25年7月の建立のようです。
織田家の名残を感じさせる濠跡
本家本元である京都の建勲神社。
数年前に京都今宮神社にお参りした時、ご神職からお伺いしたその呼称に興味を覚えたものです。
巷では「けんくんさん」という呼び名で通っているのです。
確かに「たけいさお」と言うよりも、「けんくん」の方が言いやすいですよね。正式名称は建勲(たけいさお)のようですが、建勲(けんくん)でも決して間違いではありません。
織田小学校の北方から校舎を望みます。
道路脇の石垣は、かつての土塁なんでしょうね。
美しい山容の三輪山を背景に。
そういえば、崇神天皇陵近くの伊射奈岐神社にも建勲神社が祀られていました。意外とあちこちに鎮座なさっているようです。
織田小学校の南東隅。
いかにも陣屋跡を彷彿とさせる造りです。
土塀に四角い孔が見られますが、ひょっとすると ”狭間” がデザインされているのでしょうか。
土塀を目で追うと、途中で一段カクッと北に折れていますね。かつての陣屋にも、あの一段入り込んだ西側に孔が空けられていたようです。出入口の監視と側防を兼ねた横矢の役目を担っていたものと思われます。
織田小学校の正門横に、芝村藩陣屋跡の案内板がありました。
ここは児童たちが登下校で頻繁に行き交う場所です。歴史に溶け込んだ学校とはいいものですね。
芝・陣屋跡の解説パネル。
戒重織田家の七代藩主輔宣の時代に、戒重から芝に陣屋を移した。延享2年(1745)のことである。総面積は約8haに及び、北の弁天池を防備の一郭に取り込み、周囲に濠と土塁をめぐらした。上街道に面した西門を入れば大手筋で、他に南と北に入口があった。現在織田小学校前の広場、石垣、土塀の一部が、当時のおもかげを残している。
大三輪中学校の正門前から北へ向かって右折すると、かなり広い通りに出ます。
両側には民家が並んでおり、道なりに進んで行くと織田小学校に辿り着きます。以前からなぜあんなに道幅が広いんだろうか?と疑問に思っていたのですが、この解説を読んで納得しました。確認はしていないので確かなことは言えませんが、なるほどあの通りは大手筋の名残なのかもしれない・・・そう思えたのです。
織田家の名残がそこかしこに感じられます。
”周囲に濠と土塁をめぐらした” と案内されていましたので、その濠の方へと向かいましょう。
織田小学校の南方に広がる濠。
魚釣り禁止の注意札が掲げられます。ここからも東方に三輪山を望みます。
東西にかなりの水を湛(たた)えています。
見事に張られた防御網に、織田家の力を垣間見る思いがします。
いや~、桜井市の観光は奥が深いですね。
改めて大神神社や長谷寺だけではないことを再認識致しました。皆さんも是非、建勲神社を訪れてみて下さい。きっと新たな発見が待っているはずです。