橿原神宮文華殿は旧柳本藩織田屋敷

橿原神宮文華殿の見学レポートです。

橿原神宮二の鳥居近くに社務所や貴賓館がありますが、その東側に文華殿は位置しています。昭和42年に織田家旧柳本藩の表向御殿を移築、復元した建物であり、重要文化財にも指定されています。

橿原神宮本殿特別参拝との同時開催で、文華殿の秘庭も特別公開されました。

橿原神宮文華殿

橿原神宮文華殿の建物内。

天理市柳本町の専行院には織田有楽斎の墓があります。さらには、柳本織田藩の祖・尚長をはじめとする歴代藩主の墓も祀られています。古墳の多いことで知られる柳本エリアですが、一昔前は織田家の拠点でもあったようですね。

文華殿拝観受付の係りの方にお伺いすると、文華殿は学校の校舎としても利用されていた時期があったそうです。

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古事記の世界へ誘う久米舞

文華殿の入口で靴を脱ぎ、建物内へと上がります。

左手に伸びる廊下を進むと、右手に華やかなオレンジ色の衣裳が飾られていました。文華殿使者乃間にディスプレイされていたのは、橿原神宮の祭事に舞われる久米舞の衣裳です。

使者乃間

文華殿使者乃間に展示される久米舞(くめまい)の衣裳。

楯を両脇に従え、袖を横に張った状態で展示されていました。

久米舞の由来を辿れば、畝傍山西方の川辺に住んでいたという古代部民・久米部に行き着きます。今も橿原神宮近くには久米寺や久米御縣神社などがあり、”久米” との深い関係が感じられます。

古事記にも久米舞の記述が見られますので、ここにご案内しておきます。

久米舞の衣装

神武東征の際、奈良・宇陀の地に居たという兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟。

イワレビコ(神武天皇)はまず、八咫烏を遣わして天つ神に従うかどうか尋ねさせます。それに対し、兄のエウカシは鏑矢を射て八咫烏を追い返してしまいます。イワレビコを迎え撃つ姿勢を見せた兄に対し、弟のオトウカシは兄の謀(はかりごと)をイワレビコに伝えます。

久米舞の写真

橿原神宮境内で舞われる久米舞。

橿原神宮では、昭和祭(4月29日)新嘗祭(11月23日)の日に舞われるそうですので、見学希望の方はスケジュール調整をして是非訪れてみて下さい。

弟の進言によって謀略を見破られた兄のエウカシは、自らが仕掛けた罠に押し潰されて即死することになります。その亡骸は引きずり出されてバラバラに斬り散らされたそうです。「宇陀の血原(ちはら)」と伝わる惨劇のシーンです。

エウカシを無事に討伐したイワレビコは、弟のオトウカシが献上した御馳走を全て兵士たちに与え、盛大な宴を開いたと伝えられます。宴の中でイワレビコは久米歌を唄って祝いました。

久米舞の靴

天皇の宴には付き物だった久米舞と久米歌。

その後、弟のオトウカシは宮殿の飲み水を司る宇陀の水取(もいとり)の祖先になったと伝えられます。水取司(もいとりのつかさ)、主水司(しゅすいし)、水司(すいし)とも呼ばれ、後宮十二司の一つにも数えられます。宇陀の地には水分神社が鎮座していますが、水との関連が見え隠れしますね。

久米歌に舞いを付けたのが起源とされる久米舞。

橿原神宮からも程近い久米御縣神社にお参りすれば、久米歌を歌ったという久米部の歴史を知ることができます。文華殿見学でオレンジ色の衣裳を目にすると、古事記の世界への扉が開かれたような気がして参ります。

久米舞の解説

久米舞の解説パネル。

宮中では天皇即位の大嘗祭や諸儀式に舞われています。当神宮でも四名の舞人が剣を抜き、雅楽の音色と共に、いにしえの宴を思い起こさせる歌舞を奉奏します。

室町時代に廃絶し、江戸時代に再興しました。上代歌舞に由来する古い芸能の面影を伝える貴重な演目です。

当神宮では毎年2回、4月29日昭和祭、11月23日新嘗祭にて奉奏されます。

久米舞はその歴史から言っても、かなり古い部類に属する古典芸能です。橿原の地に即位した神武天皇とも深い関わりのある芸能だけに、一度生で鑑賞してみたいものですね。

久米舞の衣装

使者乃間と言うからには、お使いの方が通された部屋なのでしょう。

そんなに広いスペースではありませんが、左右対称に見栄え良く展示されています。

久米舞の衣装

楯には橿原神宮の神紋が見えますね。

久米舞には久米歌が唄われ、笏拍子・和琴(わごん)・竜笛・篳篥(ひちりき)などが使われたそうです。舞人4人に歌人4人というのが基本スタイルだったようです。歴代天皇の遊宴に用いられていましたが、平安時代以後は大嘗会や豊明節会(とよのあかりのせちえ)にだけ行われるようになりました。

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文華殿の場所

橿原神宮の境内は広く、文華殿のことをご存知でない方も多いものと思われます。

そこで、地図やアクセスルートを交えながら簡単にご説明致します。私が今回訪れたのは、橿原神宮本殿特別参拝の日です。本殿の特別公開に当たり、勅使館、文華殿、貴賓館の秘庭も拝観することができました。イベントデーとあって、境内にも分かりやすい境内案内図が出ていました。

文華殿の地図

二の鳥居手前、神橋の脇にあった境内マップ。

普段の参拝では、二の鳥居を抜けて左手に見えてくる手水舎で身を清め、そのまま南神門をくぐって外拝殿前へと進み出ます。この地図でも一目瞭然ですが、文華殿のある場所は通常参拝ルートでは通ることのないエリア内であることが分かります。

文華殿の案内看板

鳥居向かって左手に抜けて行く道があります。

文華殿や貴賓館はこの先にあります。勅使館は反対方向になりますので、拝観される方はお気を付けください。

しばらく進むと、右前方に社務所や貴賓館、橿原神宮会館などが見えてきます。その手前を左折します。

文華殿の案内看板

順路の立札がありました。

駐車場の脇を通って行くようですね。文華殿の庭が写真付きで案内されていますが、紅葉の季節はきっと美しいのではないでしょうか。

文華殿の門

文華殿の門前で、秘庭特別公開観覧券をかざします。

普段は非公開の場所だけに、胸の高鳴りを覚えます。

文華殿の玄関口

小さな門をくぐると、すぐに立派な玄関が目に飛び込んできます。

軒下には蟇股の意匠も見られますね。

文華殿の庭

橿原神宮文華殿の庭。

玉砂利に模様が付けられ、緑の綺麗なお庭が広がります。所々に見られる石は何を表現しているのでしょうか。

文華殿の裏門

こちらは反対側の門。

社務所や貴賓館と向き合う場所に設けられた門です。この門が開いているところを見たことがないのですが、秘庭特別公開のこの日も、残念ながら固く閉ざされたままでした。

文華殿といわれ庭

重要文化財文華殿と記されます。

文華殿の秘庭は「いわれ庭」と称されているのでしょうか?奈良県内には難読地名が多く、磐余(いわれ)もその内の一つとされます。いわれ庭の名前の由来が、磐余にあるのかどうか定かではありませんが、いずれにしても奈良の歴史を感じさせてくれる庭であることを願います。

文華殿の瓦

軒丸瓦に施された紋。

この御紋は織田家とも何か関係があるのかもしれません。ちなみに織田信長の家紋といえば、織田木瓜や揚羽蝶が知られます。軒丸瓦の紋は織田木瓜紋とは似ても似つかぬものですが、果たしてどうなのか気になるところですね。

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下段の間から大書院へと続く文華殿建物内

橿原神宮文華殿の建物内には明確なランク分けがあります。

かつては柳本藩織田屋敷だったこともあり、その建物内には身分の高低を意識した造りが随所に見られます。

それでは、順を追って見ていきましょう。

玄関乃間

文華殿の中に入ると、目の前で出迎えてくれるのが玄関乃間です。

畳の敷かれた部屋の奥、床の間のような場所に二枚の絵が飾られていました。

春秋図

孔雀の絵でしょうか。

美しい羽根の一枚一枚が細やかなタッチで描かれます。

春秋図の解説

狩野周信(かのうちかのぶ)による「春秋図」と題される作品のようです。

江戸時代前期から中期の絵師。父は木挽町狩野2代目狩野常信。

延宝6年(1678)に将軍徳川家綱に謁見し、江戸城障壁画を描く。正徳3年(1713)父狩野常信の跡を継ぎ、享保4年(1719)法眼に叙せられ、同年朝鮮国王粛宗へ送る屏風を描く。

典型的な江戸狩野の作風以外にも、幅広い研究の跡を見せている。

すごいですね、江戸城の障壁画を描いたり、朝鮮国王へ贈る屏風を描いたりと・・・なかなか信頼の厚い絵師だったようです。

六葉・菊座・樽の口

黄金に輝く六葉の意匠。

ハート型を思わせる猪目(いのめ)にくり抜かれた穴が印象的ですね。菊座から樽の口が突き出た美しいデザインです。

文華殿の廊下

玄関乃間から左へと廊下が通っています。

突き当り正面に左方向を示す順路札が見えますが、その手前右側に冒頭の使者乃間が控えています。

文華殿の展示物

順路札の背後に、三つに仕切られた広いスペースが広がっていました。

その一番手前に、朱雀らしき鳥の姿の描かれた布が掛けられています。

文華殿

なかなか壮観です。

手前から下段三乃間、二乃間、一乃間と続きます。向こうへ行くほど上座になっているようです。廊下脇の障子が開け放たれ、文華殿の秘庭が垣間見えます。鴨居の上にはバッテン印の結界も見られますね。

下段三乃間

文華殿の下段三乃間。

最も身分の低い人の居場所ということになるでしょうか。

下段二乃間

下段二乃間。

ちょっと位が上がりますが、まだまだといったところ(笑)

下段一乃間

下段一乃間。

襖の向こうには文華殿の心臓部とも言える大書院が控えています。一乃間までくると、ここが大書院のすぐ下座に位置していることが分かります。大書院の欄間彫刻も見事ですね。

欄間の結界

大書院に近い下段一乃間から、より下方に当たる二乃間、三乃間を望みます。

廊下には係りの方が常駐なさっていて、矢継ぎ早に飛び出す参拝客の質問に答えておられました。いわゆる定点ガイドという案内役ですね。

大書院の欄間彫刻

身分の高い人が居座る空間には、極彩色の欄間彫刻が見られます。

江戸時代の様式が残る立派な欄間です。

大書院中段乃間と上段乃間

大書院中段之間と上段之間。

ここは表座敷で殿様が家臣たちと対面した所ですね。畳の広間を囲む廊下は、極彩色の欄間彫刻の所で屏風により仕切られていました。よって殿さまの居空間を間近に見ることはできませんでしたが、一番奥の一段高い所を覗き込めば、そこが殿様の坐であることが容易に想像できます。

文華殿の引き手意匠

襖の引き手も黄金に輝きます。

菊花紋がデザインされているのでしょうか。

文化殿廊下の結界

廊下の上にも結界がデザインされていました。

よく見ると、こちらは一重のバッテン印ですね。下段一乃間から三乃間にあった結界は二重のバッテン印でした。一重よりも二重の方がより結界の度合いが強いのだそうです。一重の結界印には、せめて廊下ぐらいは気軽に通ろうよといった意味が込められているのかもしれません。

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造園史家・森蘊作の庭

文華殿の秘庭は、日本を代表する造園史家の森蘊(もりおさむ)氏によって造られています。

蘊蓄(うんちく)の “蘊” で「おさむ」と読むんですね。作庭においては、さすがに豊富な知識を持っていた人物なのかもしれません(笑)

文華殿庭園

橿原神宮文華殿の秘庭。

やはり庭はバランスなのでしょうね。木が植えられ、石が適所に配され、どこから見ても全体的にしっくりくる。何がどうと言うのではなく、主観的にも客観的にも美しい。庭造りには素人の私には遠く及ばばい広がりが感じられます。

文華殿庭園

建物の中から額縁風に庭を切り取ってみるのも面白いですよね。

そこには計算されたであろう美が完結しています。

文華殿庭園

軒下の廊下に沿って眺めてみるのも一興です。

様々な立ち位置、あらゆるアングルから庭を愛でます。立って鑑賞する庭と、座って鑑賞する庭とではおのずとその表情も違ってきます。座布団でも敷いて、ゆったりとした時間の流れの中で庭を見る。それが本来の姿なのかもしれません。

文華殿庭園

こんな構図もイイですね。

庭のみならず、建物との一体感も演出されます。

文華殿庭園

向こうへとカーブを描く道が付けられていますね、果たしてどこへ迷い込んで行くのでしょうか。

古庭園の復元や作庭に辣腕を発揮したという森蘊氏。

1988年にお亡くなりになられているようですが、日本庭園の研究者としてその名を知られます。昔の庭園を発掘、測量、文献研究などの手法で究めていったと伝えられます。作庭歴も実に豊富で、京都府木津川市の浄瑠璃寺庭園や橿原市今井町の今西家庭園なども手掛けています。

通販サイトの Amazon でも造園史家・森蘊の著作本が紹介されています。ご興味をお持ちの方は、是非ご一読下さい。

文華殿の天井の高さ

文華殿建物内の結界印。

左側が一段高くなっているのが見て取れますね。

右が廊下で、左が下段の間です。廊下より居間の方が高く位置付けられているわけです。二重と一重のバッテン印の違いにも注目です。

文華殿

橿原神宮文華殿は披露宴会場としても利用されているようです。

橿原神宮の結婚式の後、重要文化財の建物で会食できるなんて夢のような話ではないでしょうか。今回併せて見学した勅使館も、同じく披露宴会場として活用されているようです。

橿原神宮さんもなかなか太っ腹です。

橿原神宮文華殿

文華殿玄関口。

平成28年4月3日には神武天皇二千六百年大祭が催されます。

日本の初代天皇を御祭神とする橿原神宮が、日本国中から注目される一日になることでしょう。世紀の大祭を前に、普段は拝観できない橿原神宮境内を見て回ることができました。また新たな橿原神宮に出会い、充実した一日となりました。

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