桜井市粟原にあるムネサカ古墳を見学して来ました。
終末期古墳の中でも大型の円墳です。ムネサカ古墳は場所が分かりづらいことで知られます。古墳ルートの写真も含め、巨大な横穴式石室をご案内します。
ムネサカ古墳1号墳の横穴式石室。
玄門のまぐさ石も巨大ですね!両袖式の横穴式石室が南に開口していました。
玄室内にはカマドウマでしょうか、何やら蠢くものがあちらこちらに・・・玄室床面には敷石があり、排水施設との関連性もうかがえます。
7世紀中頃の円墳!玄室内に漆喰が残る奈良県史跡
ムネサカ古墳は”並び墓”ではないかと言われます。
1号墳と2号墳が南向きに開口しており、どちらも円墳で距離もそんなに離れていません。今回私が訪れたのはムネサカ1号墳の方です。結論から申しますと、2号墳の横穴式石室は見つけることが出来ませんでした。
ムネサカ1号墳の横穴式石室開口部。
墳丘の頂上付近でぽっかりと口を開けていました。
ムネサカ1号墳の玄室内。
埋葬施設の”玄室”はとても広い空間です。奥壁、側壁ともに二段積みですね。花崗岩の切石で見事に構成されています。天井石と側壁の間には漆喰が残っていました。羨道は基本的に一段積みのようですが、入口付近だけは二段積みになっています。
石材の構成や規模からも、明日香村の岩屋山古墳との類似性が浮かび上がります。同じ設計図から造られたのではないかとも言われています。
ムネサカ1号墳の案内板。
昭和33年に県史跡に指定されているようです。
粟原川の右岸、粟原川に向って枝状にのびる丘陵に、双墓状に二基の円墳が丘陵南斜面を整形して作られている。二基の円墳は東西に並ぶが、東の円墳がムネサカ古墳(第一号墳)である。
古墳の規模は現状で、直径45m、高さ約8mである。墳丘は二段築成で、貼石が認められる。
埋葬施設は南に開口する両袖式の横穴式石室で、石室は花崗岩の切石を用いて築かれている。石室の規模は玄室長約4.6m、幅約2.7m、高さ約2.4m、羨道長12m、幅1.9m、高さ1.5mである。玄室側石と天井石との隙間には漆喰が残存している。また玄室床面には敷石があり、凝灰岩の細片も見つかっているので、石室内には石棺がおさめられていたようである。
古墳の造られた年代は、横穴式石室の形態、規模が明日香村の岩屋山古墳と類似することから、7世紀前葉から中葉頃と推測されている。
1号墳の北西方向に2号墳があります。
見学を終えてから気付いたのですが、2号墳の石室もおそらく墳丘の頂上付近にあったんだろうなと思います。どちらも円墳ですが、2号墳の方が規模は小さいです。墳丘の裾をうろうろしていたので発見出来なかったのでしょう。地図をチェックしてみると、国道からより遠い場所に2号墳があります。次回は迷わずに辿り着きたいと思います。
ムネサカ古墳の行き方!アクセス至難の双墓
ムネサカ古墳は国道166号線沿いにあります。
忍阪方面から女寄峠を目指して登って行くと、左手に森本運輸さんが見えてきます。見学の際は森本運輸さんの敷地内を通りますので、まずは通行許可を頂いてから向かいましょう。
森本運輸さんの駐車場内へ入り、この倉庫の左向こうへ回り込みます。
フェンス越しに道が付いていました。
ここを通り抜け、右手へ登って行きます。
古墳ルートの始点に、目印のテープが巻かれていました。
古墳探索ではおなじみのテープですね。有難い限りなのですが、ムネサカ古墳に限ってはあまり役に立ちませんでした。花山塚古墳やエンドウ山古墳に比べ、テープの数もそんなに多くありません。
要点を言えば、こんもりした丘陵の頂付近を目指すことです。
急坂を登って行きます。
左手下には国道が通っています。
しばらく急坂を登って行くと、道案内が現れます。
右方向を指していますね。
少し引くと、こんな感じ。
木にテープが巻かれ、Y字状・二手に道が分かれています。
左へ行けば2号墳、右へ行けば最短距離で1号墳に辿り着きます。右方向を選んで1号墳を目指してもいいのですが、かなりの急勾配です。まずはぐるりと回り込んで2号墳から見学し、その延長線上に1号墳を目指すのが無難です。
左の丘陵が2号墳、右が1号墳です。
草木が繁茂して非常に分かりづらいですが、おぼろげに二つの墳丘を確認することができます。
Y字路を左に取り、なだらかな裾ルートを進んで行ったのですが、なぜか2号墳の開口部を見つけることが出来ませんでした。墳丘の上へ登る必要があったのでしょうが、今となっては後の祭りです。
辺り一面に熊笹が生い茂り、方向感覚を見失いそうになります。周辺をうろうろしながら、とにかく最大の目的である1号墳を目指します。
そうすると、また道しるべを見つけました。
これは明らかに1号墳を指しています。この上手にムネサカ1号墳の横穴式石室があるはずです。
案の定・・・ありました!
やはり1号墳の方が見つけやすいのでしょう。通行の許可を取る際、森本運輸の方もおっしゃっていました。二つあるけれども、もう一つの方はなかなか見つけにくいと。
羨道は12.5mもあるようです。
玄室も含めた全長は17m以上にも及び、実に立派な横穴式石室です。
身を屈める必要もなさそうですね。
こんな巨大な石室が粟原の山奥にあるとは!
羨道の途中に土砂が堆積していました。
その奥に玄室空間が浮かび上がります。床面に多数の敷石がありますね。
ゆったりとした空間です。
ムネサカ1号墳は2段築成の円墳で、高さは約8mです。その上段に横穴式石室が開口しています。
多くの敷石!
壁に接する方が低く敷かれています。その敷き方から察するに、排水施設との関連が浮かび上がります。
敷石と敷石の間からは凝灰岩の細片が見つかっているようです。
ここに石棺が納められていた可能性がありますね。
奥壁を背にし、玄門方向へ振り返ります。
二段積みの側壁がスケールの大きさを感じさせます。岩屋山古墳に比べれば、やや粗雑な造りかもしれません。石の表面も岩屋山よりは精緻な印象を受けません。でも、そこがまたムネサカ古墳の魅力でしょう。
街ナカにある岩屋山古墳と、山奥に残るムネサカ古墳。
近づきがたい場所に、これだけ綺麗な石室を残しているのです。
桜井市粟原周辺では、越塚古墳の横穴式石室も迫力があります。
奈良県桜井市は横穴式石室の宝庫と言われますが、そのトップスリーに入る石室ではないでしょうか。
玄室の天井石。
巨大な天井石と側壁との間に漆喰が見られます。
1,350年余りの長きに渡り、この巨大な石室を守ってきたであろう漆喰。思わず労いの言葉を掛けてあげたくもなります。
出口へ向かいます。
見学には懐中電灯が必要かなと思いましたが、無くても大丈夫でした。季節や時間帯にもよると思いますが、春先の正午前、晴天の中での古墳探索は快適でした。
南向きに開口しているからでしょう。奥壁まで微かに光が届いています。
赤坂天王山古墳(1号墳)が真っ暗だったことを思うと、より見学しやすい石室だと思います。ムネサカ古墳の被葬者ですが、粟原寺(おおばらでら)の建立に関与した中臣氏の周辺が囁かれています。
熊笹は大変ですけどね(^-^;
開口部付近は繁茂していませんが、ここへ至る道中は視界を遮るほどの熊笹です。
先達たちのアドバイスにもありますが、とにかく見つけにくい古墳です。古墳の帰り道に当り、さらに何枚か写真を残しておこうと思います。
1号墳の下手付近。
切株と杭のようなものが見えます。
見ようによっては、1号墳へと続くゲートのようでもあります。
2号墳から1号墳へ向かう道中。
左手の木にテープが巻かれていますね。
まぁどこも似たり寄ったりの風景で、何がなんだか分かりません(^-^;
所々で親切なテープが誘導してくれます。
行き方に迷ったら、とにかく頂上を目指します。より高い所へ、それでいいと思います。
丘陵の頂付近に横穴式石室が開口しています。エンドウ山古墳もそうでしたが、ムネサカ古墳のルートも複数あります。決して行き方は一つではありません。ただ、最終的にはどのルートも頂上付近の開口部へとつながっています。
最短ルートを辿るのもいいですが、おすすめは左からぐるりと回り込む道です。人が通った跡があり、比較的進みやすい道のりです。最短コースを取ると、道なき道を進むことになります。
ムネサカ古墳の帰り道。
右手に国道166号線を見下ろします。
森本運輸さんの看板。
2月末に訪れた今回のムネサカ古墳。12月~1月頃に来れば、もう少し視界良好だったのかもしれません。萌え出ずる春を前に、少し時期的に遅かったかなと思った次第です。
往路に通ったフェンスが見えてきました。
ムネサカ古墳群には4号墳も存在していたようです。
現在は消滅していますが、1・2号墳よりも東の尾根にありました。ムネサカ4号墳は直径18mの円墳で、横穴式石室の羨門が外に向かって開く「ハ」の字状だったと言います。特異な石室の形態で、近畿地方では見られないものです。
ムネサカ4号墳の築造時期は5世紀末頃で、北部九州の影響を強く受けていると考えられます。桜井市内の石室の中では最も古く、畿内における導入期の横穴式石室と位置付けられます。
石位寺と大宇陀町の道標。
国道166号線の下を通る道に降りて来ました。国道沿いに忍阪方面へ向かって歩き出します。
国道下の風景。
頑丈そうな造りですね。
このまま道を下って左方向へ進めば、粟原谷を見下ろす越塚古墳へと通じています。