板状の石をレンガのように積み上げた横穴式石室。
桜井市浅古にある舞谷2号墳は磚槨(せんかく)式石室の古墳として知られます。珍しい石室を持つ舞谷2号墳ですが、鳥見山から南に派生する計5基から成る舞谷古墳群の中の一つとされます。一つの尾根上に一つの墳丘が築かれるというスタイルで、西から順に1号墳から5号墳までが並んでいます。
舞谷2号墳の磚積(せんづみ)式石室。
羨道の石積みはほとんど失われていましたが、玄門付近からハの字を描く ”持ち送り” が実に見事な石室です。
榛原石(室生安山岩)を磚状に加工した石材
桜井や宇陀地方の磚槨墳(せんかくふん)には榛原石が使用されています。
「磚」とは中国で瓦を意味する言葉です。
まるで薄い瓦を積み上げたような石室は他に類を見ません。舞谷2号墳の他にも、桜井市粟原にある花山西塚・東塚古墳なども磚積式石室で知られます。巨石をド~ンと使うのとはまた違った方法で造られているのが印象的ですね。
この辺りが玄門付近だと思われます。
磚積式(せんづみしき)と呼ばれる理由がよく分かりますね。朝鮮半島の影響を受けている古墳とよく言われますが、果たしてその真相やいかに!?その外観からも目が離せない古墳の一つです。
長方形の墳丘中央部に、南向きに横穴式石室が開口していました。
榛原石の板材で構築され、壁面には漆喰が見られます。
全長は4.4m以上、玄室長2.4m、玄室幅1.35m、玄門幅1.07m、そして玄室高は1.68mとされます。羨道は見る影もありませんが、長さ1.74m以上でその幅は1.12mを計測しています。
舞谷2号墳のアクセス方法
それでは、恒例の行き方をご案内致します。
私は今回が2回目の挑戦でした。実は初めてトライした時は、明らかに道を間違っていました。過去の苦い経験も踏まえて、これから舞谷2号墳を目指される方の一助になればと思います。
最重要ポイントは、道路沿いに付けられた白い手摺りの階段です。
実はこの白い手摺りの階段が桜井中学校周辺に二つあるのです。浅古寄りの階段ではなく、「忍阪寄りの階段」が正解ルートになります。さらにこの階段は、道路を挟んでそれぞれ反対方向にあります。道路の南側ではなく、「北側に付いている階段」が正しいアクセスルートです。
以上の二点を踏まえて、浅古交差点から忍阪方面へ向かって進んで行きます。やがて右手に桜井中学校の入口が見えて参ります。その手前に白い手摺りの階段が道路南側に付いているのですが、その階段ではありません。そのまま桜井中学校を通り過ぎ、忍阪方面へと続く緩やかな坂道を登って行きます。
忍阪方面へと向かう坂道。
道路を横断して、既に道路北側の側道を歩いているところです。舞谷2号墳はこの道路北側の墳丘上にあります。
桜井地区砂防指定地。
側道の数箇所に、砂防指定地を案内する看板が立っていました。水色で描かれているのは鳥見山です。
ここです。
浅古方面から歩いて来ると、石段は向こう側からせり上がる形で付けられています。左手に白い手摺りが見えていますよね。
再び道路南側に渡って、白い手摺りの階段を撮影。
道路脇に地蔵石仏が祀られていました。
さぁ、この石段を登って行きます。
結論から言えば、この階段さえ間違わなければ、あとは誰でも迷うことなく舞谷2号墳に辿り着くことができます。階段は途中で右に折れていますが、階段を登り切ったら真っ直ぐに歩いて行くだけです。ちょうどドン突きが舞谷2号墳の石室です。
階段が右へ折れるところですね。
後で思ったのですが、この階段はあたかも舞谷2号墳の磚積式石室へ向かうためだけに取り付けられたかのようです。ただただ、真っ直ぐ突き当りに目的とする石室があり、その他は何も無いのです。寄り道するルートも見当たりませんでした。帰りも来た道をただ引き返すだけでした。
階段を登り切ると、こんな感じの藪の中を進みます。
藪の中とはいえ、ちゃんとストレートに道は付けられており、いわゆる獣道ではありません。
見えてきました!
ぽっかりと穴をあけているのが分かります。あれが舞谷2号墳の横穴式石室です。
まるで横穴式石室へと続く花道のようです。
真っ直ぐにその穴へと吸い込まれていきます。
7世紀中葉に築造された方墳の舞谷古墳群
舞谷古墳群は1号墳から5号墳まで、その全てが方墳スタイルです。
墳丘は方形横長で、榛原石がレンガ状に積まれた石室を特徴としています。昭和56年に3号墳、昭和59年には4号墳、そして昭和61年には5号墳前庭部が発掘調査されています。さらに昭和60年には、1号墳の墳丘測量調査も行われています。
アクセスルートを辿り、突き当りの磚積式石室に辿り着きました。
石室の中に、何やら石仏のようなものが祀られていますね。
綺麗に持ち送りされる側壁上部。
階段状に見事な八の字が形成されています。これはまさに、芸術的な石室ではないでしょうか。榛原石の表面が所々に苔生し、石室全体にいいアクセントを生んでいます。入ってすぐに奥壁ですから、横穴式石室にありがちな陰湿なイメージも感じられません。外光が奥まで届いており、石室の中に入る恐怖感も全くありません。
天井の石は比較的大きなものでした。
側壁や奥壁に比べれば大きいのですが、その大きな石でさえも精巧に加工されています。見事にレンガ状になっていますよね。
側壁の所々には小さな石も見られます。
漆喰が塗られているのが、素人目にもよく分かります。
奥壁を背に、二体の石仏が祀られていました。
後世に祀られたものなのでしょうか。
首には補修の跡が見られますね。
そして、その額には白毫が刻まれています。
こちらは半跏スタイルの石仏ですね。
向かって右側の、奥壁と側壁が交わる隅っこの方に坐しておられました。
側壁にズームイン。
随分小さな石がかませてあります。
この段差が舞谷2号墳を特徴付けます。
隣接する5つの尾根に連続して築かれた舞谷古墳群。
舞谷古墳群の被葬者は一体誰なのでしょうか?少し前に築かれたこうぜ古墳群や秋殿南古墳の後継者なのか、はたまた埋葬施設の違いから推し量るならば、全く別の集団が埋葬されているのか?今なお、その謎は解明されていません。
階段状に持ち送りされる奥壁と側壁上部。
この辺りのポイントは、奈良市の黄金塚古墳と共通する構造のようです。
やはり本物を見るに限りますね。
論より証拠、手に取るようにその構造が把握できます。
素晴らしい!
古代ヨーロッパの神殿をも思わせる造りに酔い痴れます。
実に巧妙です。
そして美しい!こんな素敵な古代空間を目の当たりに出来るとは思ってもみませんでした。
桜井市は奥が深い。
そう思わせる瞬間です。全国的に見ても、わずか十数例しかないと言われる磚積式石室を堪能させて頂きました。
舞谷2号墳の帰り道。
来た道を引き返します。階段の下には、途切れることなく車の往来があります。静かな場所ですが、そこそこの交通量はあるようです。
羨道は半壊していますが、かろうじて玄室は残されています。
これからも守っていきたい古墳の一つですね。
舞谷2号墳へのアクセスは、県道37号線奈良交通浅古バス停から東へ徒歩10分となっています。忍阪方面からだと、国道166号線忍阪東交差点を西へ曲がり、桜井市グリーンパーク北西の尾根を目指します。
さぁ、あなたも舞谷2号墳へ繰り出しましょう!
<奈良県桜井市の横穴式石室案内>