3:2:1の比率で知られる纒向石塚古墳。
この割合は一体何を表しているのでしょうか?
前方後円墳の全長と後円部径、前方部長の比率がそれぞれ3対2対1になる・・・この割合は典型的な纒向型前方後円墳とされます。前方部が三味線の撥状に開いており、後の前方後円墳に比べて前方部が短いことが特徴です。
纒向石塚古墳。
箸中の箸墓古墳よりも古い古墳と言われ、国史跡に指定されています。
纒向石塚古墳をはじめ、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳の4基を合わせて纒向古墳群が形成されます。纏向遺跡西部に点在する纒向古墳群からは葺石や埴輪が出土していません。埋葬施設も不明です。不整形な後円部と小さな前方部を持ち、その周りには周濠が巡らされています。周濠からは祭祀系遺物や建築材などが出土しており、大型前方後円墳出現前の古墳である可能性をうかがわせます。
段築と馬蹄形周濠が見られる前方後円墳
纒向石塚古墳の出土遺物としては、弧紋円板や朱塗の鶏形木製品などが知られています。
墳丘を取り囲む馬蹄形周濠は、巨大古墳への過渡期にあったことをうかがわせます。また、後円部西側には段築の跡が残されています。前方部には段築が無かったものと思われますが、後円部の段築は三段に築かれていたようです。
纏向遺跡散策マップ。
JR巻向駅前の旧纒向小学校跡地に、散策ルートを案内する看板が立っていました。
Aコース、Bコース、Cコースの散策ルートが案内されています。全長3㎞に及ぶ箸墓古墳~ホケノ山古墳のルートはつい最近歩いたばかりだったので、今回は久々となるBコースを選びます。4基の纒向古墳群を巡る全長2.4㎞のウォーキングコースです。
纒向石塚古墳の墳丘西側に見られる段築。
お正月のTV番組でも放映されていましたが、これぞ「生きている」証しですね。削平を受けて昔の面影を失くしてしまう古墳が多い中、当時のままの姿を残しています。死んでいるのではなく、生きている!胸躍る瞬間ではないでしょうか。
纒向石塚古墳(墳丘墓)の案内板。
全長約96mの前方後円墳の墳丘をもつ大型墳墓。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纒向型前方後円墳」の典型的な例とされています。
箸墓古墳などの定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀前半~中頃の築造と考えられ、のちの大型古墳に見られるような葺石や埴輪は存在しません。このため古墳時代初頭の「古墳」とする考え方がある一方で、弥生時代終末期の「墳丘墓」とする意見があり、古墳時代のはじまりを議論する上で注目される資料となっています。
石舞台古墳の英語案内などにもありましたが、古墳の翻訳はどうやら burial mound になるようですね。
「古墳」なのか「墳丘墓」なのか、未だに意見の分かれる古墳のようです。纒向石塚古墳は果たして ”日本最古の古墳” なのでしょうか、あるいは弥生時代の墳丘墓にとどまるのでしょうか。観光資源の観点から言えば、やはり日本最古の古墳であってほしいと願います。
墳丘の見取図でも分かりますが、前方部は既に道路によって寸断されています。
この細い道路ですね。
このアスファルト道によって、纒向石塚古墳の前方部は寸断されてしまっているようです。こんもりと盛り上がった丘陵が後円部です。墳丘上部は第二次世界大戦末期に大きく削平されているようです。どうやら高射砲の陣地を設営するために埋葬施設と共に削平を受けたようです。う~ん、それは残念な話ですね。
纏向遺跡の便益施設新築工事中
JR巻向駅を降り立ち、線路の西側に出ると何やら工事が行われていました。
道路左側に広い空地があり、その手前に「便益施設新築工事をしています」と書かれた案内板が立っていました。桜井市の平成28年度予算を見れば、纏向遺跡の整備に1億3,070万円が費やされたようです。
纒向遺跡保存管理・整備活用計画に基づき、纒向遺跡の史跡整備に着手し、旧纒向小学校跡地におけるトイレ等便益施設の設置及び辻地区の公有化事業を行います。
このように報告されていました。
纒向石塚古墳と纏向遺跡(辻地区)の道案内。
ここから纒向石塚古墳への距離は560mと出ています。
工事現場の背景に三輪山を仰ぎます。
そこから右方向に目を移せば、卑弥呼の墓ではないかとされる箸墓古墳の墳丘も見えています。
工事期間は平成29年2月10日までのようですね。
便益施設って何なのでしょうか?ちょっと興味がそそられますね。
セーフティコーンも積まれています。
此処はかなりの敷地面積があります。敷地の南方には木が一列に植えられ、あそこが一つの区画ラインになっているものと思われます。
纏向遺跡水洗トイレ。
簡易型トイレが4つ並んでいました。
工事現場である「現在地」が示されています。
纒向小学校の周りには纒向石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳が集まります。そこから少し離れた南方に東田大塚古墳が佇んでいます。今回は辻地区の纏向遺跡を目指すCコースは歩きませんでしたが、次の機会に歩いてみようと思います。
4基の纒向古墳群ですが、それぞれ向きもバラバラのようですね。矢塚古墳と東田大塚古墳だけはほぼ同じく、後円部が北東方向を向いているのが分かります。
区画された並木の向こうに箸墓古墳を望みます。
古代ロマンあふれる場所ですよね~!
巻向川に沿って居並ぶ古墳群。
この地図を見ても、箸墓古墳の大きさが際立ちます。ホケノ山古墳の東方に慶運寺が案内されていますね。古墳好きな方であれば、横穴式石室を持つ慶運寺裏古墳のこともご存知ではないでしょうか。小川塚西古墳って?初めて見る古墳の名前です。長い間桜井市に住んでいても、まだまだ知らない古墳があるようです(笑)
墳丘に登れる纒向石塚古墳へアクセス
纒向石塚古墳のいいところは、墳丘に登ることが出来る点です。
纒向古墳群の中でも、墳丘に登れるのは纒向石塚古墳だけです。見た目も綺麗な芝生に覆われており、比較的観光向きの古墳ではないかと思われます。それでは、JR巻向駅から纒向石塚古墳へ向かうことに致しましょう。
纏向遺跡の道案内。
駅前の工事現場から西へ少し歩いて行くと、纏向遺跡や纒向古墳群を案内する道標がありました。民家前に立つ道しるべ?と思いきや、どうやらとある会社のようでした。ここを右へ曲れば纏向遺跡へアクセスします。今回はこのまま真っ直ぐ道を辿ります。
左手に目をやれば、箸墓古墳の全景が!
日本初の都市国家が形成された場所を歩いている、まさにその実感に浸ります。
ここを右折すれば、纒向石塚古墳へとアクセスします。
残りの距離は180mです。纒向小学校の校舎も見えてきましたね。
進行方向左手に見えてきました。
校舎右側に見える墳丘が纒向石塚古墳です。
再び地図をチェック。
前方部と後円部のくびれ部が細いですよね。後円部から撥状に広がる前方部!ちょろっと遠慮がちに広がっているような印象を受けます。これは纒向型前方後円墳の典型的スタイルを表しています。
後円部西側。
墳丘から道を挟んで、もうすぐ目の前に纒向小学校のグランドが迫っています。
後円部の頂から三輪山を望みます。
木の遥か向こう側に、大和最大の聖地と仰がれる三輪山が顔を覗かせています。
纒向石塚古墳の全長は96mです。
後円部径61~64m、前方部長32mの前方後円墳で、その周りには周濠が巡らされています。
墳丘上から周濠跡と思われるエリアを見下ろします。
この周濠からは弧文円板、鶏形木製品、農耕具、建築材などが出土しました。木製鋤 、木製鍬 、横槌 、水槽、土師器などが出てきたというのですから、どこか生活の匂いがしますよね(笑)
纒向石塚古墳の被葬者は纏向遺跡の首長なのでしょうか?
埋葬施設も残存しない今となっては、抱き続けた謎の解明は難しいのかもしれません。
古墳のある場所は、纒向小学校のすぐ傍です。
児童たちの学び舎から目と鼻の先に位置する古墳です。本当に近いですね。
日本という国は何処から生まれたのか?
誰もが興味を抱く一大テーマではありますが、その最有力候補に挙げられるのが纏向遺跡です。
奈良観光といえば、東大寺や奈良公園が真っ先に思い浮かびます。外国人観光客も日本人観光客もその点に変わりはありません。平城京を中心とする奈良時代以前に栄えたのが、藤原京のあった飛鳥の地です。そして、それより前の時代に日本の中心であり得たのが三輪山麓なのです。このことを桜井市民は忘れてはなりませんね。その土地に根付く思いを受けて、私たちは ”今” を生きています。
金印が出土しない限り、邪馬台国の所在地は決められない。
確かにそうなのかもしれません。しかしここは、”大いなる勘違い” をしてみても面白いのではないか。そんな風に思ったりもします。今を生きる私たち桜井市民の役割は小さくはないような気が致します。