蓮如上人開基の箸尾御坊

広陵町萱野にある箸尾御坊を訪れました。

「箸尾御坊」は通称で、浄土真宗大谷派の教行寺(きょうぎょうじ)という寺院。蓮如上人が開いたお寺で、江戸時代末期に再建された本堂が実に立派でした。近鉄箸尾駅から南へ徒歩7~8分でアクセスできます。

箸尾御坊山門

箸尾御坊の寺号標。

「安静山(あんせいざん)教行寺」と刻みます。

切妻造の四脚門に光が差し込み、とても有難い気分になりました。

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富田坊舎に始まる教行寺の歴史

教行寺が産声を上げたのは、今から約500年前の文明年間(1472~1486)なんだそうです。最初からこの地にあったわけではなく、摂津国(現高槻市)に端を発します。

蓮如上人は浄土真宗中興の祖として知られます。

蓮如は吉崎(現福井県)の地を中心とした北陸エリアの布教活動に勤しんでいました。北陸での布教を終え、若狭小浜から河内国出口(現枚方市)に至るその途中、摂津国富田荘(とんだのしょう)で道場を開くことになります。

箸尾御坊本堂

教行寺本堂。

銀杏の巨木が本堂前に立っていました。

安静山教行寺

山門から築地塀に沿って北へ行くと、もう一つの門がありました。

ここにも山号の「安静山」が記されています。

箸尾御坊本堂の猪目意匠

本堂に施された猪目の意匠。

おなじみのハート形デザインですね。それにしても、イノシシの目は本当にハート形をしているのだろうかと、いつも疑問に思ってしまいます。

寺社建築の火難除けの懸魚にも「猪目懸魚」という意匠があります。どちらかと言えば蕪懸魚の方が一般的だとは思いますが、かなりの数で猪目懸魚も見られます。今年は亥年ということもあり、いつになく猪目に敏感に反応してしまいます。

教行寺山門

箸尾御坊の山門。

摂津国富田荘に開かれた道場は、親鸞聖人の『教行信証』にちなんで「教行寺」と命名されたそうです。

蓮如上人は自らの八男に当たる蓮藝(れんげい)律師を初代住職とし、「末代まで根本道場ぞ」と遺言されたと伝わります。

教行寺解説

教行寺の案内板。

当寺は本願寺第8世蓮如上人(1415~1499)の開基で、摂津国島上郡富田荘に堂宇を建立したのに創まる。

第4世證誓のとき広瀬に移ってからも幾たびか転地荒廃を経ている。現本堂は桁行7間、梁間6間、正面3間向拝付き、入母屋造本瓦葺の豪放華麗な江戸時代末期の大型真宗本堂として典型的な建物と言える。

須弥壇上の厨子入り本尊阿弥陀如来像は、鎌倉時代末期まで遡る優品である。

摂津国にあった教行寺ですが、その後、大和国にまで勢力を拡大することになります。

時代は永正年間(1504~1521)、百済の地にあった願成寺(がんじょうじ)と地頭箸尾氏との抗争仲介・調停に入ったのがきっかけだったようです。

竹取物語オブジェ

はしお元気村のかぐや姫オブジェ。

今回、私は教行寺から南へ数分の『はしお元気村』の駐車場に車を停めました。

広陵町運営の施設で、巨大なかぐや姫が目印になっています。

教行寺本堂

立派な教行寺本堂。

現在の東本願寺阿弥陀堂再建の際、そのモデルとされたお堂です。

破風板上部の八藤紋(はっとうもん)が箸尾御坊の権力を如実に示しています。

箸尾御坊の銀杏

かなりの巨木ですね。

本堂前には児童遊具も備わり、庶民に開かれたお寺を思わせます。

箸尾御坊

大和入りした教行寺は、佐味田掛所(さみたかけしょ;現河合町佐味田教行寺)などを拠点とし、伊賀・伊勢・和歌山方面に至る70余りもの末寺組織を形成します。

天文元年(1532)には、高槻の地にあった教行寺は焼き打ちに遭い堂宇を失うことに相成りました。

その基盤を大和に移してからは、田原本藩主と結び、現在の浄照寺・本誓寺の地に一宇を建立して「大和の大坂」と言われるまでの商業的発展を遂げます。今も箸尾御坊の周辺を歩けば、複雑に入り組んだ町並みを見ることができます。そこには、橿原市の今井町のような寺内町形成の跡がうかがえます。

本堂の木目

こういう木目もいいですね。

江戸時代末期に再建された建物です。

教行寺本堂

おや?

何か張り付いていますね。

教行寺本堂

改修に関わったのは、本願寺20世達如(たつにょ)上人。

教行寺の荒廃を憂い、その助力の元に再建されたと伝わります。

教行寺太鼓

本堂脇には渡り廊下。

どうやら太鼓が備え付けられているようです。

廊下の奥の格子戸は一つの結界でしょうか。

本堂の対面所は広陵町指定文化財に登録されており、上段の間を設けるなど近世寺院の形態を知る上で貴重な物件とされます。

箸尾御坊本堂

迫り出す向拝も見事です。

真宗寺院の傑作であることに間違いはないでしょう。

箸尾御坊境内

本堂廊下から境内を見下ろします。

かつては田原本で勢力を伸ばしていた教行寺ですが、やがて次代領主の平野長勝の反感を買うことになります。

承応2年(1653)には田原本の地を去り、時の郡山藩主・本多政勝より現在の箸尾の地を賜り堂宇を建立するに至ります。

江戸時代中期以降は、下街道を中心として「教行寺町」と呼ばれるほどの門前町を形成しました。当時は「御堂は極楽、おんどり地獄・・・」と詠われるなど、多くの人々の心の拠り所として発展したと言います。

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渦巻く鬼瓦!本堂前の遊具

見るべきお堂は本堂のみです。

そこに拝観寺院といった趣は無いのですが、境内で目立つものが二つあります。

児童遊具と鬼瓦です。

児童遊具と教行寺本堂

シーソーやブランコが本堂前に設置されていました。

本堂内で手を合わせた後、境内をぶらりと歩いてみます。

箸尾御坊の鬼瓦

築地塀を背に展示される巨大な鬼瓦!

おそらく再建前の本堂の屋根に乗っかっていたものでしょう。

箸尾御坊の鬼瓦

勾玉のように渦巻いていますね。

なかなか見ごたえのある鬼瓦で、至近距離からもまじまじと見学可能です。

箸尾御坊の鬼瓦

角度を変えて。

同じ町内の広陵町三吉にも、真宗大谷派の新家長福寺があります。「桜御坊」と呼ばれる八重桜の名所ですが、本堂の大きさでは箸尾御坊には敵いません。新家長福寺など可愛らしいものです。

安静山の瓦

築地塀の軒丸瓦。

「御坊」と言えば、浄土真宗本願寺派の寺院を思い浮かべるのですが、ここ教行寺は真宗大谷派に属しています。

奈良県内には「大和五ヶ所御坊」と言って、本願寺派の寺院が5つ名を連ねています。橿原市の今井御坊(称念寺)、橿原市の畝傍御坊(信光寺)、御所市の御所御坊(圓照寺)、大和高田市の高田御坊(専立寺)、田原本町の田原本御坊(浄照寺)がそれに当たります。

箸尾御坊の鬼瓦

鬼瓦の背後に回り込みます。

細部に至るまで、詳細に見ることができます。

箸尾御坊の築地塀

箸尾御坊の築地塀。

五本のラインは格の高さをうかがわせますね。

街行く人にその威厳を示しているようです。

箸尾御坊にお参りした後、聖徳太子建立の大福寺へも足を延ばしました。道中の風景にも歴史が感じられ、とても長閑な一日となりました。