もう何度も足を運んだ飛鳥寺。
飛鳥寺は私にとって、近くて遠いお寺でした。
飛鳥寺のご本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)。
母の実家が高市郡高取町佐田にあったことから、小さい頃にはよく父や叔父の送迎する車で飛鳥寺の近くを通っていました。しかしながら、その頃は全く飛鳥寺には興味を示しませんでした。日本最古の仏像である飛鳥大仏は、間違いなくその当時から本堂内に安置されていたはずなのですが(^O^)
推古天皇の発願により作られた仏像
飛鳥大仏は推古天皇の発願により、止利仏師が制作した仏像です。
元は三尊像だったと考えられており、推古17年の609年に完成した金銅の丈六像です。
推古天皇といえば、聖徳太子と共に仏教の興隆に尽力したイメージがあります。飛鳥寺も崇仏派の戦勝記念に建てられたお寺ですから、ここ飛鳥寺は我が国における仏教のメッカのような場所とも言えるのではないでしょうか。
重要文化財に指定されている飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)。
本堂内に日本最古の仏像が安置されていることを知ったのも、30歳を過ぎてからだったと思います。おそらく高校の日本史の教科書などで学んでいたはずなのですが、そんなことはすっかり忘れてしまっています。やはり写真や文字で学習するだけでは、本当に学んだことにはなりませんね。
実際にご本尊の飛鳥大仏を目の前にしてから、つくづくそう思うようになりました。
飛鳥大仏の向かって左側には聖徳太子像が祀られています。
右側には阿弥陀様が坐しておられ、本堂内には緊張した空気が流れます。
飛鳥大仏の御前には、飛鳥大仏を制作した鞍作止利の木札が立てられていました。
鞍作という名前からも分かるように、当時は馬具を制作する技術者集団のトップであった人物だとみられます。天皇の命令で造仏に取り掛かることになったわけですが、そのプレッシャーたるやいかばかりのものだったでしょうか。
「プロフィール(横顔)」とよく言いますが、飛鳥大仏の横顔も拝見させて頂きました。
阿弥陀如来坐像の御前に立ち、違った角度から飛鳥大仏の撮影を試みます。
傷の目立つ飛鳥大仏の御顔。
飛鳥寺は鎌倉時代の建久7年(1196)に、惜しくも雷火によって全焼しています。
ご本尊の飛鳥大仏も、その際に壊滅的な打撃を受けました。後に修復されたわけですが、制作当初の形を残しているのは、頭頂から鼻までの顔面部と、右手の掌の一部と指三本のみとされます。野晒しの時代もあったと言いますから、紆余曲折を経た仏像と言えるでしょう。
一塔三金堂で知られる飛鳥寺伽藍配置。
往時の姿を偲ばせます。
私は小学校時代、遠足で東大寺や法隆寺へはよく出掛けたものです。しかしながら、東大寺や法隆寺よりも距離的に近い飛鳥寺の記憶がありません。やはり伽藍が揃っていない飛鳥寺のことですから、遠足の目的地選びの候補には挙がらなかったのかもしれませんね。
創建当初はこんなに立派な伽藍配置だったんだと感慨にふけります。
今回の参拝では、ご宿泊頂いた外国人観光客の方をお連れ致しました。
丈六の仏像を前に、様々な角度から飛鳥大仏を撮影なさっていました。オーストラリアのアデレードからお越し頂いたお客様だったのですが、飛鳥大仏を前に感激のご様子でした。
拝観受付で拝観料を支払い、靴を脱いで本堂の中へと入ります。
本堂入口手前に、飛鳥大仏の写真が掲げられていました。仏様との出会いに期待が高鳴りますね。
鎌倉時代に火災に遭った飛鳥寺ですが、江戸時代になって安居院として復興しています。飛鳥寺西方遺跡のある方角から飛鳥寺境内への入口に、「安居院(あんごいん)」の文字が見られます。
鎌倉時代以降、室町時代頃に飛鳥大仏はどのような状況に置かれていたかというと、大仏の周囲には柱が立てられ、藁屋根を葺き、かろうじて雨をしのぐ状態であったと伝えられます。
本居宣長の「菅笠日記」にも、” ただかりそめなる堂 ” に安置された飛鳥大仏を拝し、” げにいとふるめかしく。たふとく見ゆ。 ” と記されています。
飛鳥大仏の御前に座って、飛鳥寺の係の方から飛鳥寺や釈迦如来坐像に関するお話をうかがいます。
飛鳥大仏は真っ直ぐに座っておられるように見えて、実は少し斜めに座っておられるようです。その見据える方向は、聖徳太子生誕の地と伝えられる橘寺とのことでした。歴史的にみて真偽のほどは定かではありませんが、どこかロマンチックで印象的なお話をお聞かせ頂きました。
飛鳥寺拝観案内
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日本最古の本格的仏教寺院 飛鳥寺
住所:奈良県高市郡明日香村大字飛鳥682
拝観料:大人350円 高校生・中学生250円 小学生200円
駐車場:普通車500円 中型バス2,000円 大型バス3,000円
アクセス:近鉄橿原神宮前駅より周遊バス(かめバス)「飛鳥大仏前」下車すぐ