良福寺の五差路から西へ向かうと、腰折田伝承地があります。
垂仁天皇の御前で行われた天覧相撲。勝者は野見宿禰で、敗者が當麻蹶速(たいまのけはや)でした。野見宿禰の足蹴り一発で、蹶速の腰の骨が砕かれたと言います。
腰折田伝承地と二上山。
蹶速像が南向きに建っています。小ぶりではありますが、土俵も再現され写真映えがしますね。
相撲節会の起源!腰折田は良福寺にあり
この日、私は香芝市内のウォーキングを楽しみました。
鹿島神社から南へ下り、福応寺、狐井城山古墳、阿日寺、阿弥陀橋等々を巡ります。最後に腰折田伝承地を訪れ、相撲の歴史に想いを馳せました。
「腰折田」の石標。
何とも名前がストレートですよね。無敵のケハヤでしたが、戦いによって腰が折れて死に至ります。さらには所有していた田地を勝者に奪われてしまいました。當麻蹶速に関しては、けはや塚の記事もどうぞご参照下さい。
良福寺五差路にある道標。
5本の道が交差する場所です。腰折田伝承地は西の二上山を目指します。
腰折田伝承地の地図。
二上山へ向けて道路がせり上がっていく手前に位置します。
この道を進みます。
左右には田畑が広がり、風光明媚なエリアでした。
しばらくすると、右手に腰折田伝承地が現れます。
化粧まわしを締めた力士像ですね。野見宿禰と當麻蹶速の力比べは、相撲節会の起源にもなっているようです。
奈良時代に宮中で始まったという相撲節会。
歴史ある節会相撲(せちえずもう)ですが、宮中で行なわれた節会儀式の一つです。射礼(じゃらい)、騎射(きしゃ;うまゆみ)とともに宮中行事三度節とされました。天皇の命で相撲を取る人を推挙させ、宮廷で力比べを行います。
プロ野球界に目を移せば、長嶋茂雄の天覧試合は語り草になっていますよね。天皇陛下がご覧になられている前でホームランを打つ。離れ業をやってのけたスーパースターなわけですが、それだけ天皇の御前というのは付加価値がつきます。
腰折田伝承地案内板。
香芝市磯壁・良福寺付近と記されています。
『日本書紀』垂仁天皇7年7月7日の条に、「當麻(とうま)郷には當麻蹶速という勇敢剛力がいて、天下に敵なしと豪語していた。天皇が群臣に力くらべ(角力すまひ)をするものを求められた。そこで、出雲の野見宿禰が召され、両人に力くらべをおさせになった。たちどころに蹶速は腰の骨を折られて死んだ。これにより、蹶速の領地が没収され宿禰に賜った。」とあります。江戸時代に編纂された地誌『大和志』には、「腰折田は良福寺にあり」とみえ、両人の決闘の地として今に伝えられています。この伝承は、奈良時代に宮中で始まる相撲節会(7月7日)の起源とされています。なお、葛城市當麻には、伝當麻蹶速塚とされる五輪塔が祀られています。
また、野見宿禰については、同32年7月条に、殉死の悪習にかえ陵墓に埴輪を立てることを進言し、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)墓に埴輪を立てたことから土師職(はじしょく)に任じられ、天皇の喪葬(もそう)を司ったとする伝承があります。
なお、出雲は現在の桜井市出雲が候補地の一つで、同地には、十二柱神社が鎮座し、野見宿禰墓とされる塚に建てられていた五輪塔が移転祭祀されています。また、同市穴師坐兵主神社の摂社で宿禰を祀る相撲神社の境内には、宿禰と蹶速が相撲をとった「カタヤケシ」と呼ばれる場所があり、この地における宿禰伝承や相撲との深い関わりが注目されます。
そうそう、対戦相手の野見宿禰は埴輪の考案者でもあります。
体力だけではなく、先見の明も兼ね備えていた人物なのでしょう。
香芝市と相撲
当地は當麻蹴速と野見宿禰が力くらべを行ったとされる「腰折田」伝承地で、付近には両人がまわしを締めたところ、まわしを洗ったところとも伝えられる「まわし池」があります。
本市では、古くから牛頭天王に奉納する宮相撲が行われていた大坂山口神社(穴虫)があり、また、近世の『竹園日記』には、良福寺・当麻・勝根(かつね)・鎌田(かまだ)・五位堂など、村名を冠した相撲組(すもうぐみ)がしばし登場します。付近の寺院や墓地などには古い力士墓が残されており、近世以降、二上山麓の村々では相撲が相当盛んであったことがわかります。
土俵の大きさ
土俵の大きさは、江戸時代の土俵が3m94cm(13尺)で行われていたことから、当時の体験をしてもらうために、現在の4m55cm(15尺)より小さくなっています。
解説にある「まわし池」の所在を確かめたかったのですが、その術もなく・・・香芝市内にはたくさんの池があり、どれが「まわし池」なのか見当もつきませんでした。
大坂山口神社(穴虫)、大の松為次郎の墓碑、當麻蹶速塚の写真。
右の地図を見ても分かるように、たくさんの池が散在しています。
牛の首を絞める當麻蹴速が描かれていました。
よほどの怪力だったのでしょう。
大和ノ国、當麻ノ郷に當麻ノ蹴速という牛を絞め死したと言うエライ力自慢がおった。
そんなケハヤをも凌駕したスクネ。
足蹴りOKとは、ちょっと驚きです。現在の相撲のルールからは外れますよね。今も相撲の決まり手に「けかえし」があることを考慮すれば、それに近い足技だったのでしょうか。
化粧まわしの紋章は、香芝市の市章ですね。
下から見上げると、いかにも腕っぷしの強そうな力士像です。
雄岳と雌岳が並ぶ二上山。
登山で人気があり、いつも老若男女が行き交います。山頂には大津皇子の墓があり、あの世のイメージと結び付きます。山麓で栄える阿弥陀信仰も、西を向く人々の心象風景と重なりますね。
ケハヤも天覧相撲で亡くなっています。
ストーリーの結末は非情で、良福寺にあったというケハヤ所有の「腰折田」は、天皇によりスクネに与えられました。
天覧相撲の様子がダイナミックに表現されています!
墨が飛び散るように描かれているのは“血しぶき”でしょうか。
天覧相撲は、スクネの足蹴り一発で勝負がついた。ケハヤは腰の骨をくだかれてその場で死んでしもうたー。
天子サマは、相撲に勝ったほうびにケハヤが持っていた田地を全部、スクネに与えられた。 ーそれが今に残る腰折田やー
これが「まわし池」なのかもしれません。
伝承地から道を挟んだ正面に、一段盛り上がった堤のようなものが見えます。
大相撲の世界では、相変わらずモンゴル勢の活躍が目立ちます。照ノ富士が復活優勝を遂げ、霧馬山の大関昇進も濃厚ですね。現在関脇の豊昇龍も続きそうな勢いです。
相撲の歴史を辿るなら、穴虫の大坂山口神社も外せません。相撲神社とも称される境内には、宮相撲の観覧席が残ります。大の松為次郎(だいのまつためじろう)という穴虫出身の力士が引退興行を行った場所でもあります。是非次回は訪れてみようと思います。