第32代崇峻天皇の陵(みささぎ)が、多武峯街道沿いにあります。
蘇我馬子の謀略で暗殺された崇峻天皇。
馬子の手先だった東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)により殺害され、その日の内に葬られたと伝わります。
崇峻天皇陵。
聖林寺から談山神社を目指して多武峯街道を登って行く途中にあります。
真のお墓は赤坂天王山古墳?天皇屋敷に佇む崇峻天皇陵
天皇の系譜を見てみると、
用明天皇~崇峻天皇~推古天皇の時代の流れの中にあり、在位期間は587年から592年とされます。
崇峻天皇陵の前に、四角く囲われた石が置かれていました。
何の目的に使われるのでしょうか?
欽明天皇の第12皇子に当たる崇峻天皇は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位しています。即位後も政治の実権は蘇我馬子が握っており、天皇は馬子を憎むようになったと伝えられます。
そのことを知った馬子が、手下の東漢直駒を使って暗殺させたのです。
臣下により天皇が殺害された唯一の例として、歴史にその名を刻むことになりました。
現在の崇峻天皇陵は、多武峯街道沿いの倉梯柴垣宮の旧地・小字「天皇屋敷」に位置します。
崇峻天皇の位牌を祀る金福寺がこの地にあったことから、この場所が崇峻天皇陵として比定されています。ところが、それを立証する確たる証拠はなく、忍坂街道から倉橋溜池に向かう途中にある赤坂天王山古墳こそが崇峻天皇陵ではないかとする説もあります。
蘇我馬子の命令によって崇峻天皇を暗殺した東漢直駒ですが、彼自身も後に馬子によって殺害されています。
崇峻天皇の後に即位した推古天皇や聖徳太子と共に、我が国の礎となる仏教を興隆させた蘇我馬子ですが、なんだか恐ろしい一面も持ち合わせていたんですね。
ここは倉橋。
倉橋溜池や、かつての卑弥呼の庄が間近にあります。
崇峻天皇陵の横を流れる寺川。
東漢直駒の名前で気付いたんですが、「東」と書いて「やまと」と読むんですね。
磐余の道の山田寺跡裏手に鎮座する東大谷日女神社も「やまと おおたにひめ」と読みます。中国から見て、東の方角という意味が込められているのでしょうか。