山の辺の道の外れにある志貴御縣坐(しきのみあがたにます)神社。
大己貴神(おおなむちのかみ)を祀り、崇神天皇のお宮跡と伝わります。
三輪小学校の卒業生にとっては、マラソンコース沿いの神社という位置付けでしょう。毎年冬になると、学校行事としてマラソンが行われます。子供心に薄暗い境内が神秘的だったのを思い出します。
志貴御縣坐神社の磐座(いわくら)と磐境(いわさか)。
拝殿向かって右側に、古代の祭場が設けられていました。
神の降臨する磐座が4つ一直線に並んでいます。一段高い祭壇は玉垣に守られ、結界は磐境として形成されます。数ある三輪山麓磐座群の中でも、誰もが認めるオフィシャルな磐座です。
四道将軍を派遣した崇神天皇
第10代崇神天皇の御代、疫病が流行って国が乱れたと云います。
そんな乱世の中、不思議なことが起こります。天皇や臣下の夢に大物主命が現れ、皇孫である太田田根子をして私(オオモノヌシ)を三輪山に祀れば国が治まるというのです。当時大阪に居たオオタタネコが探し出され、彼を大神神社の神主として迎え入れることになりました。
崇神天皇磯城瑞籬宮趾。
向こうに見えている建物は、天理教の敷島大教会です。
太田田根子は茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)、もしくは「河内の美努村(みのむら)」に居たと伝えられます。「茅渟の海」は大阪湾を指します。少し話は逸れますが、釣りで人気の黒鯛(チヌ)は大阪湾でよく獲れることに因んでいます。
太田田根子は現在、”太田の森”と称される堺市の陶荒田(すえあらた)神社に祀られています。須恵器発祥の地ともされ、陶器大宮の名で親しまれています。謎の人物とされる太田田根子ですが、纒向遺跡もかつては太田遺跡と呼ばれていたことを思うと、三輪山麓において「太田」という名前には敏感になります。
お告げ通りにオオタタネコが大物主を三輪山に奉ったところ、疫病も収まり、無事に国が栄えるようになったそうです。三輪山麓にもオオタタネコは祭祀されており、大神神社摂社の大直禰子神社がそれに当たります。
他にも崇神天皇の業績を見ていくと、”大和朝廷全国統一”を象徴する四道将軍(しどうしょうぐん)の派遣が語り継がれます。全国平定のために派遣された4人の皇族将軍。その中には、山陽方面に遣わされた吉備津彦なども含まれています。
磐座を見学するには、山の辺の道を平等寺から金屋の石仏方面へ向かいます。三輪山平等寺から続く谷を抜けた辺りで道が二手に分かれていました。
ここに出ます。
左から音羽山(おとわやま)、鳥見山(とみやま)、御破裂山(ごはれつさん)を遠望します。フェンス越しに続く道は山の辺の道です。目指す志貴御縣坐神社は反対側の右方向へ取ります。
桜井市観光協会の案内が出ていました。
音羽山は尼寺の音羽山観音寺で有名ですよね。標高851.7mですか、467mの三輪山よりも遥かに高いことが分かります。
音羽山と鳥見山。
手前の低い山が鳥見山です。ここからでも市街地に接していることが確認できますね。鳥見山の麓には、神武天皇ゆかりの等彌神社が鎮座しています。
ビューポイントから右へ取り、少し道を下って行くと、やがて右手に志貴御縣坐神社の杜が見えてきました。
神明鳥居の奥にある磐境と磐座。
ここは崇神天皇の磯城瑞籬宮址と伝わる場所です。「磯城(しき)」とは、周囲を堅固な石で守った祭場を意味します。三輪遺跡の東端に位置し、『崇神記』には”師木水垣宮”とも記されます。
綺麗に四つの石が、ほぼ一直線に並んでいます。
このライン上を三輪山方面へ辿れば、聖なる崇拝対象があるのかもしれませんね。
なぜ四つなのか? その数も気になるところです。短絡的に考えるならば、四道将軍の派遣が浮かびます。また4という数字には、何かと根源的な意味があるとも言えます。春夏秋冬の四季、東西南北の4つの方角をはじめ、なぜ神社の結界に使われる紙垂は四枚で構成される「四手(しで)」なのか?まぁ流派によって4とは限らないようですが、”垂れる(しだれる)”にルーツがあるという説もあり、色々興味深いところではあります。
向かって一番右端の磐座。
色の違う箇所がありますね。
右から二番目の磐座。
白い筋が二本通っています。
磐座の鳥居から左へ目をやると、何やら磐座と思しきものがありました。
これです。
本殿右手前に位置していますが、4つの磐座とは違って「立石」のような感じです。
考古学者の樋口清之氏によれば、その石質も4つの磐座とは異なるようです。立石の前に立ち、生前の樋口清之氏にお会いした日を思い出します。当時私は大学を卒業して社会人になりたての頃でした。京王井の頭線の東松原駅を降り立ち、樋口先生のお宅にお邪魔致しました。まだ若造の私に、丁寧に接して頂いた記憶が蘇ります。
三輪小学校の校歌を作詞されたのは樋口先生です。その節は大変お世話になり、ありがとうございました。改めて心より御礼申し上げます。
志貴御縣坐神社の本殿。
流造の立派な本殿が玉垣に守られていました。
本殿前の拝殿。
切妻造の瓦葺です。
磐座の場所は拝殿の右手、奥の方です。
境内にはベンチも置かれていました。
奈良県内には”古代朝廷の直轄地”として六御県(むつのみあがた)が伝わります。
御県坐神社(みあがたにますじんじゃ)では、神聖な菜園の霊を神として祀ります。朝廷に献上するための野菜を栽培する、とても重要な役目を担っていました。
磯城瑞籬宮伝承地の解説文。
磯城瑞籬宮は、第10代崇神天皇が営んだ宮とされています。記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。
これは三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)を探し出しました。
そして彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。
また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。
記紀万葉の物語(崇神天皇の条)
三輪山の神、大物主神
三輪山神婚伝承(おだまき伝承)
三輪山の神をお祀りした話
元伊勢伝承
箸墓伝承
四道将軍の派遣
活日の御酒献上
崇神天皇の皇居伝承地。
天皇の系譜を辿れば、欠史八代の直後に当たります。実在する天皇としては初代ではないかとする説もあります。初めてこの国を治めた天皇として、「はつくにしらす すめらみこと」の称号も伝わります。
「磯城内大社志貴・・・」の社号標。
参道の行く手に見えている緑の杜が”志貴御縣坐神社”です。
この地点から右手の金屋方面へ歩いて行くと、大神神社末社の八坂神社(南天王山)や金拆社(山崎)があります。
志貴御縣坐神社の石鳥居。
その背後の堂々たる建築物は、三輪山麓の天理教敷島大教会です。
天理教の中でもかなり広大な敷地を誇ります。
「磯城島のやまとの国」「式島のやまとの国」など、大和の枕詞にもなった敷島(しきしま)。天理教の教祖・中山みきも三輪山を信奉していたと聞いたことがあります。
左後方に三輪山の頂を望みます。
磯城瑞籬宮跡を訪れる際は、敷島大教会の中を歩いてみるのもいいでしょう。三輪山の懐にすっぽりと抱かれ、贅沢で静かな時間が楽しめます。