三輪から金屋の集落へ通じる道中。
そこに、崇神天皇の皇居跡と言われる磯城瑞籬宮があります。
崇神天皇の陵は長岳寺の南側にあり、山の辺の道のハイキングルートにもなっていることで知られます。大型前方後円墳の崇神天皇陵は旅行ガイドブックなどでもおなじみですが、皇居跡と伝わる磯城瑞籬宮を御存じの方はそう多くはないのではないでしょうか。
磯城瑞籬宮跡の万葉歌碑。
境内の短い石段を登った所にありました。
磯城島のやまとの国!志貴御県坐神社
山の辺の道美化促進協議会発行のパンフレットによれば、作者未詳・筆者山口誓子の万葉歌碑と紹介されています。
山の辺の道には川端康成の筆による万葉歌碑もあり、日本が誇る文学者の名前があちこちに散見されます。淡白な文体で分かりやすく、私も若い頃には読み漁った武者小路実篤や、桜井市ご出身の考古学者・樋口清之氏の名前も見られます。
拝殿向かって左側、西の方向に摂社が祀られていました。
磯城島の 日本(やまと)の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ
歌の意味はこうです。この大和の国に、私の愛しいと思う人が、もし二人も居ると思うのだったら、何をあれこれと嘆くことがありましょう。私の恋しい人はたった一人しか居ないものだから、あれやこれやと気を遣うことばかり多いのです。
「磯城島の」は大和に掛かる枕詞として知られます。このブログでも以前にご紹介した「そらみつ」も大和に掛かる枕詞です。大和を飾り立てる枕詞の多様性は、そのまま大和の憧憬へとつながっているのでしょう。
見事な黄葉ですね。
写真左の向こう側に、こんもりと見えている緑の杜が磯城瑞籬宮跡です。
金屋の石仏から平等寺へ向かう途中のポイントで撮影しました。このまま進んで行って、右折すれば平等寺、左折すれば磯城瑞籬宮跡へと続きます。つまり、磯城瑞籬宮跡は正規の山の辺の道ルートから少し外れた所にあります。
磯城瑞籬宮跡の鳥居には、「志貴御縣社」と書かれています。
磯城県主の祖である天津神饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)を祀る式内社です。
志貴御県坐神社(しきのみあがたにいます じんじゃ)と言います。「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が境内に建てられたのは大正年間だと言います。そのことを考え合わせると、どうやらこの地は志貴御県坐神社で通っていたのではないでしょうか。
鳥居から真っすぐ北へ進んで行くと、正面に拝殿があります。
狛犬が両脇を固め、普通の神社と変わらぬ風情を感じさせます。
拝殿東側の摂社跡。
何やら磐座のような物体がごろごろしていますね。
平等寺へ続く道。
竹やぶの生い茂った薄暗い道を進みます。長い道のりの続く山の辺の道の中でも、なかなか雰囲気のあるU字路として知られるルートです。
あなたの代わりになる人は居ない・・・そんな切実な思いが伝わって来る万葉歌碑です。大和国中(やまとくんなか)を見下ろす皇居跡で詠まれた歌なのでしょうか。磯城島の日本の国とは、実に広大無辺な広がりを感じさせる言葉ですね。