仏の語源

仏(ほとけ)という言葉の語源はどこにあるのでしょうか?

仏とは悟りを開いた如来にだけ使われる呼称であると聞いたことがありますが、そもそも「ほとけ」とは何を意味しているのでしょうか。

飛鳥寺の阿弥陀如来坐像

飛鳥寺の阿弥陀如来坐像。

「ほとけ」という言葉は「ほと」と「け」の合成語です。

「ほと」は「仏」という中国語をそのまま輸入しています。現代風に発音すれば、「仏(ぶつ)」と読みます。

飛鳥寺の阿弥陀如来坐像!写実性に富んだ藤原仏
飛鳥大仏の向かって右側に坐しておられる阿弥陀如来坐像。 藤原時代の仏像で、物静かな雰囲気を漂わす仏像として知られます。 飛鳥寺の阿弥陀如来坐像。 連泊でお泊り頂いたオーストラリアの外国人観光客をお連れして、日本最古の寺院である飛鳥寺を参拝し...

それでは、なぜ「ぶつ」が「ほと」になったのか?

これは時の流れの中で母音が変化していったことに由来します。

「つ(tsu)」が「と(to)」に変化し、清音濁音の変化も手伝って「ぶ(bu)」が「ふ(fu)」になります。さらには「ふ(fu)」が「ほ(fo)」になり、「ほと」と発音するようになったいきさつがあります。

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仏の「け」は目には見えぬ気配のようなもの

「ほとけ」の「け」は、目には見えないけれども何となくその辺に漂っている気配のようなものを指しています。

「もののけ(物の怪)」の「け」、「けはひ(気配)」の「け」、さらには体を覆う「け(毛)」などにも同じルーツが見られます。体毛の毛が同じ起源を持っているとすれば、毛深い人は自身の気配を消すことが難しいのかなと思ったりもします(笑)

久米寺の大日如来坐像

久米寺の大日如来坐像。

古語辞典を紐解いて「け」と発音する字を拾ってみます。

占いを意味する占(け)、実体の無いことを意味する仮(け)、消える消(け)、内部から外に発散する目には見えない気(け)、陰陽道で易の算木の面に現れる象(かた)を意味する卦(け)、理由を表す故(け)、「晴れ」に対する普段や日常を意味する褻(け)等々、どれも実体に乏しい、どこかその辺りを漂っている ”雰囲気” のようなものが感じられる言葉が目に付きます。

仁和寺中門の仏像

京都の仁和寺中門の仏像。

百済から仏教が伝来した時、日本は最初から「仏像」という目に見える偶像を崇拝する機会を得ます。

しかしながら、仏教誕生国であるインドでは、目の前の仏像を崇拝するというカタチをとっていませんでした。紀元前におけるガンダーラの仏教遺跡を見てみると、そのことは明らかです。ただそこには椅子が置いてあるだけで、像らしきものが存在しないのです。

日本の寺院でも仏足石をよく見かけますが、あの仏足石も仏像が作られる前の崇拝対象であったことを思い出します。

飛鳥寺の釈迦如来坐像

日本最古の仏像とされる飛鳥寺の釈迦如来坐像

仏像は比較的新しい存在であり、仏像以前の崇拝対象は目には見えないものだったのです。そこに存在しているのか存在していないのか定かには分からないけれども、何とはなしにその気配を感じ取ることはできる。それが「ほとけ」という言葉の由来になっています。

神様も目には見えません。

仮初めの姿として蛇になったり鹿になったり、はたまた山奥から熊の格好をして現れることはあります。しかしながら、本当のお姿は誰も拝んだことはないのです。神様もまさしく、仏と同じ「け」なのです。

仁和寺の観音像

仁和寺の観音像。

夫婦は長い年月を経て、お互いに空気のような存在に変わっていくと言います。

毎日繰り返される暮らしの中で、どことはなく漂う空気のような存在になる夫婦の仲。仏の存在にもちょうど同じようなことが言えるのではないでしょうか。ハレ(晴れ)とケ(褻)で言うなら、普段のケ(褻)の中にこそ、その存在意義があるような気がしてなりません。

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