般若寺のシンボルといえば、顕教四仏(けんぎょうしぶつ)を刻む十三重石宝塔がよく知られています。そしてもう一つ、境内の奥に並び建つ笠塔婆にも注目してみましょう。
般若寺の笠塔婆の高さは約5m。
14.2mの高さを誇る十三重石宝塔には遠く及びませんが、二基並ぶその姿は参詣客にも強いインパクトを与えています。
般若寺のコスモスと笠塔婆。
般若寺は言わずと知れたコスモスの名所です。色とりどりの20種類ものコスモスが境内を埋め尽くします。ダブルクリック、シーシェル、サイケ、ピコティ、さらには大輪のオータムビューティとどれも美しく、秋の奈良阪には花の楽園が出現していました!
伊行末の息子が建立した父母の供養塔
般若寺の笠塔婆を建てたのは伊行末(いぎょうまつ)の息子・行吉(ゆきよし)です。
般若寺はかつて、平氏の南都焼討の被害に遭っています。東大寺も火難に遭い、その東大寺復興のために来日していた宋の石工・伊行末が、建長5年(1253)に般若寺の十三重石宝塔を造立しています。歴史に名を残す名人・伊行末の息子に当たる人物こそが伊行吉なのです。亡き父の供養と母の無病息災を願って建てられたのが笠塔婆なんだそうです。
般若寺の笠塔婆。
それぞれに阿弥陀三尊、釈迦三尊の梵字が彫られています。
国の重要文化財にも指定されており、十三重石宝塔との親子競演が楽しめます。父・伊行末の一周忌に当たる弘長元年(1261)に建立されています。元は寺の南方の「般若野」と呼ばれる墓地入口にあったようです。その後、廃仏毀釈によって無残にも破壊され、明治26年になって境内に移転再建されています。
般若寺の本堂と乱舞するコスモス。
十三重石宝塔の周りにも、綺麗なコスモスが咲き乱れていました。
入母屋造の本堂ですが、その外陣は古様の吹き放しになっています。御本尊の文殊菩薩を安置するお堂であり、般若寺拝観の中心スポットとされます。
歴史ある唐草文様の支え金具
笠塔婆の前に目を移すと、歴史を感じさせる遺物が残されていました。
うん?これは何だろう・・・廃仏毀釈によって一度は破壊された笠塔婆ですが、その再建時に使われた道具のようです。
笠塔婆の支え金具から、仲良く並び建つ笠塔婆を垣間見ます。
先がくるっと丸まり、頑丈そうな鉄製金具が唐草文様を描いていました。
結構高さもあるようです。
それもそのはず、高さ5メートルの笠塔婆を支えていたわけですから。どのような配置で支えていたのでしょうか、当時の写真でもあれば面白いのになと感じた次第です。
笠塔婆支え金具二基の解説文。
明治元年の廃仏毀釈で破壊された笠塔婆を、明治25年(1892)に修理再建するとき使用した。昭和33年に取り外される。唐草文様。フランスで調達。パリ万博のエッフェル塔(1889)用に新開発された錬鉄製。
8年間もの長きに亘って、今の笠塔婆を支え続けていたようですね。
かつて行われたパリ万博の際、エッフェル塔建設のために開発された錬鉄が使われています。想像の域は出ませんが、おそらく耐震性や耐久性にも優れているのでしょう。世界中の人を魅了してやまないエッフェル塔と、静かな古刹の笠塔婆が重なります。
少しアングルを変えて。
厚みはさほどないようです。
再建時に支えが必要であったのもうなずけますね。
少し笠の部分が欠けているでしょうか。
笠塔婆の下部には、264文字の銘文が見られます。
今となっては東大寺再建に尽力した、宋人石工の事績が分かる貴重な史料となっています。
笠塔婆の足元には、地蔵菩薩が祀られていました。
赤い布を首に掛けた、慎ましやかなお地蔵さんです。
笠塔婆と一切経蔵。
笠塔婆も一切経蔵も共に鎌倉時代のものとされます。
『太平記』で名高い大塔宮護良親王が唐櫃に隠れ、危難を逃れた場所がこの経蔵であると伝わります。元版一切経を収納する経蔵で、内部は三方に経棚があり、天井は垂木が見える化粧屋根裏になっています。
唐草文様のデザイン。
いずれは取り外すことを前提にした物であったはずです。
なぜこのような ”お洒落” が施されたのか? 頭の片隅にエッフェル塔が意識されていたのでしょうか。
こうして用を終えた後も、境内に残された支え金具。
不思議とコスモスの風景にも馴染んでいます。
笠塔婆の左手に見える建物はトイレです。
阿弥陀三尊と釈迦三尊、どちらが行吉の父で、どちらがその母なのでしょうか。時を超えた親子の愛情に見守られるように、コスモスが彩りを添えています。
通路を区画する支え金具。
今はゲートのような役目を果たしているのかもしれませんね。
「機械遺産」という言葉がありますが、昔の日本を支えてきた様々な金属類にも興味を覚えます。機械遺産とは明らかに異なるものですが、歴史ある笠塔婆の支え金具も、いつまでも境内に残しておいて欲しいなと願います。