橿原市白橿町の益田池児童公園。
その公園内に平安時代初めに造られた「益田池堤跡」が残されています。
堤跡の近くには宣化天皇陵や新沢千塚古墳群もあります。それぞれ徒歩圏内ですので、ゆっくり時間を取って訪れてみたいものですね。
史跡益田池堤跡。
高取川と県道戸毛久米線の間に位置しています。
益田池は灌漑用の池で、その名前は「田を益すの功ありし」に由来しています。1961年(昭和36)の4月に行われた高取川河川改修工事の際に、川底から巨大な樋管が二ヵ所から出土しました。発見された木樋は現在、橿原考古学研究所附属博物館に展示されています。
高取川に架かる益田大橋から鳥屋橋へ、往時の面影を辿る
平安時代の弘仁年間に工事が始まったとされる益田池の堤。
かの弘法大師空海が碑文を書いて協力したと伝わります。益田池堤跡の南西に広がる鳥屋池も溜池ですが、奈良盆地には数多くの溜池が見られますね。益田池堤跡の南方には益田岩船があり、空海がしたためた益田池の堤の石碑土台だったのではないかとする説も伝えられます。
益田池堤跡。
現存する堤の長さは約55mで、高さ8m、幅30mの規模です。
当初は約200mもの長さを誇る堤だったようで、北は鳥屋橋から南方の鳥坂神社まで続いていたと言います。今も鳥坂神社は小丘上に鎮座しており、その面影を残しています。
史跡 益田池の堤 附樋管 昭和55年3月28日指定
益田池は現在の橿原市西池尻町、久米町、鳥屋町にかけての低地につくられた灌漑用の溜池である。「性霊集」巻二所収の「大和州益田池碑銘幷序」によると、弘仁13年(822)に工事に着手したと伝えられる。
益田池の堤は貝吹山から北に派生してくる鳥坂神社の位置する尾根と、鳥屋橋のある久米大地の西南先端部との間をせき止めてつくられている。長さは約200mである。現存する堤は長さ約55m、幅約30m、高さ約8mである。
堤の断面観察によると下層はアコーズとシルトの自然堆積で、上層には土器の混入が認められる。
昭和36年4月の河川改修の際、川底から樋管が二ヵ所で出土した。その位置は堤の外側で樋管は東南東の方向にのびていることが確認された。また、昭和43年9月に堤の内側にある橿原市下水処理場建設の際に樋門と思われる遺構が検出された。この遺構と先に確認された樋管とが一連のものと考えると約90mにわたって樋管が存在していたことになる。樋管の時期については樋門と思われる場所から土師器の皿と黒色土器の椀が出土しており、池の築造時期とほぼ一致している。
益田池の堤および樋管は平安時代以来の治水事業を考える上で重要な資料である。 平成元年3月
益田池の堤の上。
堤跡には階段が付いており、上まで登ることができます。
見学に訪れたのは残暑厳しい9月半ばで、辺り一面に草木が繁茂していました。階段も草で覆われ、どこにあるのか分からないぐらいでした。堤跡の見学は夏を外した方が良さそうですね。
県道沿いの住所表示から益田池堤跡を望みます。
鳥屋町と記されていますが、堤跡の住所は橿原市白橿町のようです。
鳥坂神社の拝殿。
絵馬の掛かる拝殿奥に、本殿らしき祠が見えています。
鳥坂神社は益田池堤跡から県道を挟み、真向いの高台に祀られていました。
左が県道、右が高取川。
電信柱の左足元にブロック石が積まれていますが、ここから扇状に益田池児童公園が広がっています。
もう一つの案内板ですね。
堤を高く積み上げていく過程で、粘着性のある土が使われていたようです。
この堤は高取川をせき止めて大貯水池を作るために平安時代初期に築かれたもので、北は鳥屋橋北側、南は鳥坂神社までの長さがあった。しかし河川改修等の土木工事や土取りで昔の面影が失われてきている。堤は10cm~30cmごとに突き固め徐々に背を高くしており、途中には黒灰色の強い粘着力のある土をはさんでいる。
高さは海抜80m前後で、現在残っている堤の部分では9m~10m積み上げられていることが判っている。また堤の幅は広いところで40mに達するのではないかと考えられる。
昭和37年現高取川の改修工事の時に巨大な木樋が発見され、益田池に貯水される水量を調節するための導水管が敷設されていることが明らかになった。推定貯水量は満水時に140万トン~180万トンである。
なお益田池の堤は、昭和55年3月28日に県指定文化財となっている。
想像を絶する貯水量ですね。
数字だけでは具体的にイメージすることが出来ません(笑)
かろうじて平安時代の遺構が残っています。
そのほとんどが失われているとはいえ、残存する遺構は大変貴重なものです。
県指定史跡に列せられているようですが、知名度はイマイチ・・・。
児童公園の敷地内。
特筆すべきものは何もありません。
堤跡の外周には杭が打たれていました。
その横に屋根付きの休憩所があります。
県道沿いの看板。
益田池自体は今は存在しませんが、その跡地に橿原ニュータウンが建設されているようです。
益田池児童公園の柵と高取川。
益田池が無事竣工に至ったのも、821年(弘仁12年)に空海が改修した讃岐国(香川県)満濃池の技法を採り入れた成果だとも言われます。益田池の碑文を書いた空海ですが、工事には携わっていなかったようです。弘法大師空海の弟子・真円らが工事に従事したと伝えられます。
益田大橋。
益田池堤跡の東にある橋で、高取川に架かっています。
左側を通るのが県道133号戸毛久米線です。
県道をそのまま西へ進めば、群集墳の新沢千塚古墳群へアクセスします。
益田大橋と高取川。
西方向を向いています。
高取川に架かる鳥屋橋。
鳥屋橋の南側から撮影しています。
鳥屋橋は益田大橋から一つ北西に位置する橋で、益田池の堤はこの橋の北側から鳥坂神社まで築かれていたようです。
鳥屋橋の袂からも益田池堤跡に通じています。
川沿いを東へ向かいます。
季節のキバナコスモスが咲いていました。
まだ暑い時期に咲くコスモスですね。
再び益田池児童公園内に足を踏み入れ、堤跡を見上げます。
先ほどとは反対方向になります。
階段を上がって丘陵上へ。
ここが平安時代の遺構なのかと思うと、感慨も一入ですね。
秀吉時代の御土居も立派な遺構ですが、益田池堤跡はさらに歴史を下った歴史遺構です。経年の差を思えば、その価値も上がるというものです。
益田池復元図。
少々分かりづらいですが、往時の範囲を偲ばせます。
益田池児童公園の入口。
高取川に面した裏口に当たります。
宣化天皇陵。
県道の戸毛久米線から南向きに撮影。
こんもりとした丘が第28代宣化天皇の御陵です。益田池堤跡からは西へ数分の場所にあります。
高取川の流れを堰き止めて造られた益田池の堤。
比較的地味な歴史スポットですが、弘法大師ゆかりの場所でもあります。空海ファンには是非おすすめしたいと思います。