徳利塚古墳を見学するために訪れた桜井市の高田エリア。
目的地に辿り着く前に、まずは山の神を祀るという高田山口神社にお参りしました。
とても素朴な境内で、社殿は無く御神木や鳥居が残るのみです。12月の亥の子祭りで有名な神社ですが、高田寺という寺跡でもあります。
高田山口神社の境内。
周りは竹林に囲まれ、隆起する木の根っこが勇ましい!
暴れ放題で神霊を慰める!子供が主役の亥の子祭り
亥の子祭りのことは以前から聞いていましたが、実際に現地を訪れるのは初めてです。
以前までは高田山口神社も祭りの舞台でしたが、現在は集落の集荷場で行われているようです。伝統祭事の継承は、適宜形を変えながら連綿と受け継がれていきます。
高田山口神社の鳥居。
石碑には金毘羅さんの名を刻みます。石鳥居の上手が中心エリアのようで、祭壇のような場所が設けられていました。辺りは水を打ったような静寂に包まれています。
亥の子祭りの案内板。
山口神社の山の神に捧げたものを奪い合い暴れ回る子供の祭り。毎年12月の第一日曜日に行われる。
集落中の15歳までの男の子のある家が輪番で頭屋を営む。大頭屋と呼ばれる当屋で配膳について、すぐ膳をひっくり返したり、神棚の燈明を消したりした後に、真夜中に山口神社へ行き、引継ぎを行う。イノコアラシとの別称で、各地にみられる行事であるが、大和では珍しがられる子供神事である。今は集落の集荷場で行事を行っている。 桜井市教育委員会
イノコアラシ。
現在は12月の第一日曜日に行われていますが、昔は旧暦の11月1日だったようです。
かつては亥の日に行われていたのでしょう。元来は旧暦10月の亥の日行事であったと伝わります。亥の子とは亥神のことで、田の神様に通じます。春に山の神が里に降臨して”田の神”となり、豊作を見守ります。そして秋になると再び山に帰って”山の神”となります。稲刈りの際、この田の神をお送りする行事こそが「亥の子祭り」なのです。
高田山口神社へと通じる道。
桜井市高田の集落を抜け、しばらく山道を進むと左右に道が分かれます。そこを左に取り、竹林の中を進んで行きます。
程なく坂道に付く手摺りが見えてきます。
その先に鳥居が見えますね。
高田山口神社に到着です。
創祀年代は詳らかではありませんが、御祭神を大山祇神と仰ぎます。オオヤマツミノカミは山の神様ですね。
高田廃寺の案内板。
『続日本紀』天平宝字7年(763)10月丁酉(28日)の条や、保延6年(1140)に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』にみえる高田寺は、この地に所在する遺構であろうと推定されている。
寺跡は、塔跡と考えられている土壇がわずかに残る。付近には、破壊された礎石のほか、古瓦片が散布している。出土瓦の多くは、奈良時代前・後期の軒丸瓦・軒平瓦である。
瓦の破片が散らばっているとのこと、宝探しのように探してみたくなりますね。
鳥居から上手に上がると、手水と思しき石が出迎えてくれます。
まるで血管のように浮き出た文様。天香具山の中で見た「蛇つなぎ石」を思い出します。雨乞いの石だったと記憶していますが、豊作を願う暴れ亥の子にも通じるものを感じます。
向こうに石燈籠が二基建っています。
その真ん中に土壇のようなものが確認できますね。
手水石から振り返り、下手の鳥居を見下ろします。
竹林の隙間から太陽光が降り注ぎ、とても清潔感のある境内です。
おそらくここが高田山口神社の心臓部なのでしょう。
石組みの結界の向こうに、小石がたくさん積まれています。
御幣のような棒が倒れかけています。
花生けに刻む印はお寺の卍でしょうか。
やはりこれは幣(ぬさ)でしょう。
御幣自体は新しいのですが、しばらくの間放置されているのかもしれません。
その近くに瓦がありました。
高田廃寺のものでしょうか。苔生した瓦片に時間の経過を感じます。
おそらく”祭壇”でしょう。
日本各地で行われるおんだ祭などでも、よく”牛”が暴れ回ります。より激しく暴れ回った方が豊作になると言います。高田の亥の子祭りも同じで、子供たちが御膳や汁桶をひっくり返し、山口神社の神霊を祭る御仮屋の道具を奪い合い、挙句の果てには御仮屋を破壊してしまいます。
金比羅石碑の背後に回ります。
決して広くない境内ですが、原始的な雰囲気を漂わせる神社です。
高田山口神社の帰り道。
この坂を下って、徳利塚古墳を目指します。
大和国の式内社で「山口」の社名を有する神社は全部で十四あるそうです。高田山口神社は大和国十四所山口神社の一つとされます。立地的にも山の入口に当り、山と深い関わりを持ち続けています。