かつて今木双墓(いまきのならびはか)と称された水泥古墳。
水泥(みどろ)古墳のことを初めて知ったのは、橿原考古学研究所附属博物館に展示されていた一枚の石棺写真でした。家形石棺の小口部に蓮華の文様が描かれており、その珍しい石棺が脳裏に焼き付いていました。
数年来の念願叶い、御所市巨勢谷にある水泥古墳を見学して参りました。
水泥南古墳の家形石棺。
羨道部に安置される石棺の蓋に蓮華文が見られます。水泥古墳は今木双墓と言われるように、2基の古墳から成ります。水泥南古墳(蓮華文石棺古墳)と水泥北古墳(水泥塚穴古墳)が、それぞれ100mの距離を隔てて佇みます。
6世紀後半に築造された水泥南古墳
6月中旬のよく晴れた休日に、巨勢の道を散策することになりました。
国道24号線の小殿北交差点を東に入り、まずは中鴨社・葛木御歳神社に詣でます。そこから車で栗阪峠を越えて県道を下り、川合八幡神社の手前で車を停め、歩いて水泥古墳へ向かいました。
こちらは水泥北古墳です。
巨大な横穴式石室を持つ円墳で、別名を水泥塚穴古墳と言います。
ちなみに水泥古墳の見学は、土地の所有者である西尾氏の許可が必要です。事前に連絡を入れておくことをおすすめ致します。水泥古墳は2基一括で、昭和36年に国指定史跡に登録されています。由緒ある古墳だけに、訪問前から胸の高鳴りを覚えました。
巨勢の道の道標。
散策コースの要所要所にこのような道案内が付いています。
どうやら古瀬集落の中に水泥古墳はあるようですね。
古墳のすぐ横をJR和歌山線が走っています。
水泥古墳はJR吉野口駅と薬水駅の間に位置していますが、最寄駅は薬水駅になります。ちょっと寄り道で、反対方向の踏切へと出ます。
JR和歌山線の線路。
このまま線路に沿って南へ行けば、薬水駅に到着します。
再び水泥古墳のアクセスルートに戻り、まずは水泥南古墳の石室開口部に足を運びます。
行く手右側に見えている丘陵が水泥南古墳です。
後で分かったのですが、北古墳はこれより手前の西尾氏邸宅の裏庭にあります。
水泥南古墳は直径25mの円墳で、古墳の規模としては北古墳よりも大きいようです。6世紀後半の築造で、6世紀中頃に築造された水泥北古墳よりも時代が下ります。
水泥南古墳の案内板。
墳丘外に伸びる排水溝の写真が案内されていますね。
古墳見学の際、お世話になった西尾家の奥様に解説リーフレットを頂きましたので、そちらから抜粋させて頂きます。
南古墳は6世紀後葉に築造された、直径25mの円墳とみられる。北古墳に比べると規模は小さいが、横穴式石室が南方向に開口している。石室の全長が約15m、玄室の長さ4.6m、幅2.4m、高さ2.6mである。玄室の床面には拳大の礫が敷かれていた。
石室のこの礫床の下部には排水溝が造られていた。排水溝は石室のほぼ中央を溝状に掘り、溝の中には拳大程度の礫を詰めるものである。この溝は羨道部を通って石室外に出るが、前庭部の発掘調査の結果、さらに南方向に延びたのち、東に曲がって谷の方向に続くことが判っている。
石室内には、玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれている。玄室のものは二上山の凝灰岩を、羨道のものは竜山石(兵庫県加古川流域で産出する凝灰岩)を使っている。
特に注目されるのは、羨道にある石棺蓋の縄掛け突起である。小口部の縄掛け突起には蓮華文(ハスの花をかたどった模様)があり、古墳文化と仏教文化の結合の一例として著名である。また、側面の縄掛け突起は削られて小さくされた痕跡が残っている。これは、追葬時に石棺を石室内に搬入するに際して、羨道側壁に縄掛け突起が当たったため、削ってしまったものであろう。
平成7年度の発掘調査で、高坏・ハソウ・台付ハソウ・台付長頸壺などの土器(須恵器)や、羨道にある石棺内から金銅製の耳飾り(耳環)が出土した。
出土品に関しては、その一部を西尾氏の邸宅内で見学することができます。
この周辺では、御所市稲宿にある新宮山古墳にも追葬の跡が見られます。横穴式石室の中に2つの石棺が納められているという点も、巨勢エリア古墳の特徴の一つなのかもしれません。
水泥南古墳の石室開口部。
普段は施錠されていますので、中に入ることはできません。見学を希望される方は、所有者の西尾氏に許可を頂くようにしましょう。石室インまで考えていないのであれば、柵越しにでも十分見ることはできます。
縄掛突起の蓮華文もはっきりと確認できます。
古墳文化と仏教文化の融合を象徴するものなのでしょうか。棺身の南側には盗掘孔がありますね。蓋の下には石がかませてあり、縄掛突起の付いた棺蓋が浮いた状態になっています。
古代瓦の文様では、すっかりお馴染みの蓮華文。
蓮華模様の描かれた軒丸瓦は、各地のミュージアムで数知れず見て参りました。その同じ模様を棺の蓋に見るとは、さすがに少し驚きますね。石棺に施された蓮華文としては、全国唯一の例とされます。
羨道部の側壁は2段積みです。
天井石は4つの石で構成されており、その高さは約1.7mとされます。施錠を解いて頂き中に入ったのですが、ほぼ身体を屈ませなくてもOKでした。
入口の柵の上部。
補修された跡のようですね。
南に開口しています。
この道を少し戻ると、左手に水泥北古墳があります。せっかく此処まで足を運んだのであれば、やはり南古墳と北古墳を併せて見学することをおすすめ致します。
石室インを果たし、至近距離から蓮華文石棺と対峙します。
やっぱり迫力が違いますね。これぞ、正真正銘の本物です。
しばしの間、竜山石で造られた家形石棺に息を呑みます。竜山石は粘りを持った均質の加工石として珍重されています。石棺の表面にも独特の柔らかさが感じられますね。
六弁の蓮華文ですね。
棺蓋の縄掛突起も計六箇所に見られます。
こんな感じでかませてありました。
棺の中も覗けるようです。
う~ん、ちょっと暗くて分かりづらいですね。
この石棺内からは金銅製の耳飾りが出土しているようです。貴重な出土品ですが、耳環に関しては後で邸宅内にて拝見することになります。
生々しい盗掘の跡。
それにしても、上手に空けてありますね。想像の域は出ませんが、技術の高い盗人集団はいつの時代にも存在するものです。
この部分が削られた跡なのでしょうか。
追葬で搬入する際、側壁に当たってやむを得ず削ったのではないかと推測されています。後期古墳になればなるほど、縄掛突起の位置が下方へ移動するようです。橿考研ミュージアムで解説されていたのを思い出します。もっと上部に付いていれば、削る必要もなかったでしょうに。
奥の玄室がライトアップされ、もう一つの家形石棺が浮かび上がっています。羨道にはわずかな隙間しかないめ、残念ながら玄室の中に入ることはできませんでした。一度トライしてみたのですが、途中で体が挟まってしまいました(笑)
玄室の床面には拳大の礫が敷かれているそうですが、辛うじて確認することができます。
緑色の箇所は苔が生えているのでしょうか。
こんなに間近に水泥古墳のシンボルに出会えるとは!ご昼食中だったにも関わらず、快く見学の受付をして下さった西尾家の奥様に深く感謝申し上げます。
手が届きそうで届かない玄室空間。
でもなんとか、照明設備があるお陰でその雰囲気だけでも感じ取ることはできました。
玄室内の家形石棺にも、同じく6つの縄掛突起が付いています。二上山の凝灰岩で造られた棺です。なお、ここからでは確認できませんが、羨道に安置される石棺奥壁側にも同じような蓮華文が刻まれているようです。
かなりすれすれですね。
横穴式石室はその構造上、追葬に向いています。竪穴式ではそうもいきませんからね。追葬向きの横穴式石室とはいえ、こうしてきちんと二つの石棺が残っているというのも珍しいのではないでしょうか。
巨大な横穴式石室が開口する水泥塚穴古墳
石棺を見るなら南古墳ですが、石室を堪能するなら北古墳がおすすめです。
南古墳の見学を終え、その足で西尾家邸宅へと向かいます。邸宅の裏手へ回ると、そこには巨大な横穴式石室が開口していました。古墳年代が合致しないことから、今木双墓(いまきのならびはか)は過去の通説となりましたが、二基の水泥古墳はかつて蘇我蝦夷・入鹿の墓ではないかと言われていました。巨大権力を誇った蘇我氏の墓を偲ばせるほどの、実に見事な石室でした。
水泥塚穴古墳(水泥北古墳)。
このすぐ右手が、西尾氏の邸宅裏庭とつながっていました。
デカイ!
開口部からして南古墳を凌ぐスケールです。昔はこの開口部も埋まっていて、古墳か否かが分からなかったようです。大きな天井石が隙間なく設計されているのでしょうか、木の根っこが石室内に伸びてくることもないようです。
玄室の高さは約3.3mを誇ります。
全長13.4mの横穴式石室で、花崗岩の巨石で構築されています。
奥壁・前壁は巨石を垂直方向に積んでいます。側壁はやや持ち送りですね。
天井石も大きい!
至る所でカマドウマがうじょうじょしています。奥様から説明を受けている間も、ぽたぽたとカマドウマが落ちてきます(笑) 慣れない人は少し気持ち悪いかもしれません。襟首に落ちてくると大変なので、そこだけはしっかりガードしておきました。
両袖式の横穴式石室が南に開口しています。
羨道も全く屈む必要がありません。普通に立ったままの状態で玄室へと進むことができました。
北古墳は直径約20mの円墳です。
石室は大きいですが、古墳自体の規模としては南古墳より小さいことになります。
実に大きな奥壁です。
巨勢谷の中では最も大きな石室であり、桜井市の茅原狐塚古墳とその造りがよく似ているそうです。茅原狐塚の石室内も覗いたことがありますが、かなり巨大な空間だったことを思い出します。
奥壁左隅に置かれていた石材。
奥様のお話では、石棺の破片ではないかとのことでした。
北古墳では石棺が見つかっていないのですが、小規模なトレンチ石棺材となる凝灰岩の破片が出土しているそうです。
西尾家の庭側から開口部を見ます。
巨勢谷の巨大石室が借景になっています。この場所でしか見られない特異な光景ですね。
水泥北古墳からは排水用の瓦質土管が出土しています。
円筒状の排水管で、羨道部の浅い位置から約20本出てきたようです。追葬時に埋設された排水管と見られ、その一部が邸宅内に展示されていました。
耳環や須恵器、花弁アートが展示される資料室
水泥北古墳の見学を終え、蔵の前を通って資料室へと通されます。
実際に古墳を見学した後だけに、その理解度も増すというものです。西尾氏の有難いご配慮に感謝申し上げます。
蔵の前には銀盃草(ぎんぱいそう)が開花していました。
開花時期は6月から8月にかけてのようです。杯(さかずき)のような形をした花が特徴です。これは素敵ですね、古墳見学のついでに思わぬプレゼントを頂きました。
蔵の前に咲く銀盃草。
見事なグラウンドカバーになっています。「海鼠壁に銀盃草」、何だか名所の一つになりそうです(笑)
資料室に展示されていた耳環(じかん)。
「銅芯金張」と記されていますね。中が銅で外が金、ということなのでしょう。これこそが、水泥南古墳の羨道側の石棺から出土した耳飾りです。現物を前に、石棺に埋葬された被葬者のことを想います。
こちらは北古墳出土の排水管ですね。
随分大きな土管です。石室内の水はけを考慮して、追葬時に敷設されたものでしょう。
南古墳出土の須恵器ですね。
平成7年度の発掘調査で発見されています。すごいですね、博物館に収められていてもおかしくない展示品の数々・・・民家の簡易資料室で鑑賞できるとは思ってもみませんでした。
蓮華文石棺の下部が変色していますね。
実は発掘調査が行われる以前は、棺身の下半分以上が土砂に埋まっていたそうです。
こんな感じです。
一昔前の石室内の写真ですが、水泥古墳の貴重な歴史が垣間見えます。
こちらは、西尾家の奥様によるアート作品です。
パンジーの花びらを使って、切り絵風に高松塚古墳の美人像が描かれていました。
目を近づけてよく見てみると、確かに美人像の顔も服も花弁で出来ていました。秀逸な作品です。細やかなご配慮で見学者に接しておられる奥様ならではの作品です。
額縁に収められています。
意外な展示品でしたが、おもてなしの心を感じました。
天井から垂れ下がっているのは吊るし雛でしょうか。
ハロウィンのかぼちゃですね、様々なモチーフで作られているようです。
西尾家のご先祖様から伝わる雛人形。
爪楊枝を芯に巻いてあるものもありました。
水泥南古墳の墳丘を望みます。
水泥古墳の見学は古墳もさることながら、所有者の西尾さんの温かいもてなしを感じることができます。これは望外の喜びであり、観光立国を目指す日本もお手本にしなければならないことだと思います。
一人一人にきちんと向き合って対処して下さるその姿勢に、頭が下がる思いで一杯になりました。
西尾様、この度は誠にありがとうございました。