意外と知られていない百済寺三重塔。
鎌倉時代中期に建立された国の重要文化財で、その規模は相輪高8.39m、全高23.27mを誇ります。
見目麗しい百済寺三重塔。
塔の右手に鳥居が見えていますが、この三重塔は春日若宮神社の境内にあります。境内には数多くの境内社も祀られており、「鳥居と三重塔」の風景が楽しめる稀有なお寺でもあります。
百済寺公園の遊具と百済寺三重塔。
今回の百済寺参拝で一番印象に残る写真となりました(笑) まさかこういう場所に三重塔が聳えているとは思わなかったのです。もちろん、公園が出来たのはずっと後なわけですが、庶民の憩いの場と歴史スポットが隣り合わせという奈良らしい一枚となりました。
大織冠と呼ばれる百済寺本堂
百済寺の本堂は談山神社の旧本殿ではないかと考えられています。
今の百済寺本堂は江戸時代中期の建立とされ、広陵町の指定文化財になっています。江戸時代に百済寺は談山神社の領地となり、その末寺とされていました。
百済寺本堂。
彩色の施された方三間、入母屋造本瓦葺きの建物です。
正面に向拝、中央間には登り高欄付きの木階と浜縁を備え、三方には高欄付きの縁を巡らせています。平面規模が談山神社本殿と一致することから、談山神社の旧本殿をここへ移築したものではないかと言われます。藤原の姓を賜ると同時に、古代冠位の最高位である大織冠(たいしょくかん)を授けられた中臣鎌足(藤原鎌足)。ご存知のように談山神社には藤原鎌足が祀られています。鎌足の代名詞とも言える大織冠ですが、ここ百済寺の本堂も同じ呼び名で通ります。
百済寺に伝わる馬頭観音立像。
観音様の頭上に馬の頭部が載っています。観音像にも色々な形がありますが、馬を神格化した変化観音が馬頭観音です。馬が草を食むように人々の煩悩を食い尽くすと言いますが、比較的百済寺の馬頭観音は穏やかな表情をされています。悪を砕く憤怒の形相というよりも、悟りに近い境地を思わせます。
この仏像は檜の寄木造とされます。胸の前で三指を曲げ、他の指を立て指頭を合わせる根本馬口印を結びます。その容貌から、戦国時代に南都一円で活躍した宿院仏師の作ではないかと言われます。
百済寺公園の遊歩道から本堂後方を見ます。
誠に残念ながら、百済寺の馬頭観音立像は本堂改修工事中に盗難に遭っています。
どっしりと落ち着いた佇まいの本堂。
細部の様式から見て、談山神社の享保年間における造替時の建物とみられます。
桜井市多武峰の談山神社と、広陵町百済の百済寺。すぐには結び付かない二つの寺社に、意外な歴史を見ることになりました。
百済寺へ車でアクセス
今回、私はマイカーで百済寺へアクセス致しました。
県道14号線(桜井田原本王寺線)を桜井方面から田原本方面へと向かいます。国道24号線を横切って進み、三笠の交差点を斜め左へ取ります。スーパーおくやまを左手に見ながら薬王寺界隈を過ぎ、平野小学校の手前で左にカーブして道なりに進んで行きます。飛鳥川に架かる橋を越え、さらには曽我川に架かる橋上橋を通り過ぎて広陵町の百済エリアへと入って行きます。
程なく百済寺を案内する看板が見えて参りました。
百済の交差点から左へ250mの距離にあるようです。
百済の交差点から南の方向を望みます。
行く手の右側に、目的地百済寺の三重塔が見えています。歩道が赤く塗られ、観光客に配慮したエリアであることが伺えます。ちょうどこの辺りは西に葛城川、東に曽我川が南北に流れる中間地点に当たります。
百済寺三重塔の手前に広がる百済寺公園。
近隣住民の一時避難場所にもなっている公園です。
滑り台の向こうに公園東屋、百済寺本堂、そしてその左側に三重塔を望みます。
百済寺公園にはおトイレもありますので、百済寺の参拝客も気兼ねなく利用することができます。
幼児用遊具の後ろに三重塔が見えています。
パンダの背後に三重塔という、実にミスマッチな組み合わせです(笑)
百済寺公園の手前には無料駐車場が用意されています。
百済寺参拝の際にも利用できる観光駐車場です。綺麗に塗装され、ちゃんと車止めもある駐車場です。駐車可能台数はさほど多くはありませんが、あまり名の知れたお寺ではないだけに満車になることもそう多くはないでしょう。
駐車場もそうですが、百済寺と百済寺公園はセットで考えてもよさそうですね。
百済寺公園前のバス停留所。
巡回するバスは「広陵元気号」と名付けられているようです。
本堂の前を通って南へ進んで行くと、突き当りに百済寺警防本部詰所がありました。
左斜め前には百済公民館、右斜め前には梵字池が広がります。
平成11年の本堂改修工事中、百済寺に伝わる馬頭観音立像が盗難に遭っています。貴重な文化財を狙う輩は許せません。二の足を踏んではなりませんからね、公民館や警防本部が本堂の並びにあるのも頷けます。
梵字池の畔には、広陵町教育委員会による注意書きが掲示されていました。
池の周りには鬱蒼と草木が生い茂り、不用意に近づくと足を踏み外してしまいそうです。参拝客の皆さんはくれぐれもご用心下さい。
百済寺の歴史
百済寺は「日本書紀」舒明天皇11年(639)7月の条に「今年大宮及び大寺を作らむ」と記された百済大宮・大寺の伝承地とされます。百済川(曽我川)の西に当たる広陵町百済付近に百済大宮、そして川の東には百済大寺が造られたと伝わります。
さらには橿原市飯高町にある子部社の木を伐って百済大寺の九重塔を建てたために、神の怒りをかい塔と金堂の石鴟尾が焼失したと記されています。この後、寺は飛鳥の地に移され大官大寺となり、平城遷都に際しては大安寺へと移っていきます。
三重塔の手前に百済寺の案内板がありました。
「日本書紀」舒明天皇11年(639)12月の条に「是の月百済川の側に九重塔を建つ」とあり聖徳太子が平群郡熊凝に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名付けたと伝えられる。
その後、火災にあうが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至って伽藍を高市郡に移し大官大寺と称したと伝えられるが明確ではない。現存している三重塔は鎌倉中期の建築(昭和5年解体修理)と考えられ明治39年国の重要文化財に指定されている。本堂は大織冠と呼ばれ、方三間単層、入母屋造りで、内陣に本尊毘沙門天像がまつられている。
春日若宮神社鳥居と、その背後の百済寺三重塔。
飛鳥京や平城京に移されて荒廃を余儀なくされた百済寺。寺勢を失った弘仁年間、空海が百済の地に留まることになります。日本史におけるスーパースターの登場ですね。
空海が三重塔を建立し、本堂を修理して仏像を安置したと伝えられます。さらには境内に梵字池を掘ったのも空海とされます。
百済寺三重塔と戦役記念碑。
その後も百済寺は、度重なる兵乱によって衰微していくことになります。
明治維新頃には無檀無住のため廃寺となります。明治37年(1904)に至って真言宗高野派として再興され、現在は三重塔、本堂、中之坊(春日神社若宮社務所)が残されています。
三重塔初層に安置される大日如来座像
百済寺に伝わる仏像として、本堂本尊の兜跋毘沙門天像と並び称されるのが三重塔初層に安置される大日如来座像です。初層内部の四天柱内、黒漆塗りの須弥壇に祀られています。
百済寺三重塔の初層。
鳥居とのツーショットは百済寺ならではですね。
見事な木組みの見られる初層です。
この中に像高66cmの大日如来様がいらっしゃいます。
百済寺の金剛界大日如来。
左手の人差し指を右手で握る智拳印を結びます。理の胎蔵界に対する、智徳の金剛界を表しています。全ての仏を統括し、宇宙の真理にも通じるという大日如来。如来の中では唯一、菩薩の姿で表現されている点も親近感が湧く由縁でしょうか。
百済寺のパンフレットをよく見てみると、条帛を掛け、右足を上に結跏趺坐しているのが分かります。胎内墨書には延宝3年(1675)の銘があり、三重塔修理に伴い奉納されたことが伺えます。
春日若宮神社参拝
百済寺を訪れたなら、ついでに春日若宮神社にもお参りしておきましょう。
全国各地の神社にもお寺が併設されていたりして、神宮寺の面影を感じることがあるのですが、ここ百済寺は神社とお寺が混然一体としていて趣を異にします。
三重塔の初層近くに御百度石がありました。
ちょっと不思議な光景です(笑)
お百度石の向こう正面に春日若宮神社の拝殿が構えます。
拝殿の背後には本殿があり、通常の神社参拝と何ら変わりがありません。本殿の右手前には絵馬殿のような建物も見られ、ここが神社であることを改めて感じさせます。
鳥居の額束に春日若宮神社と刻まれています。
かつては七堂伽藍を配した大寺だった百済寺。西暦660年に滅亡した朝鮮半島の百済のことが頭をよぎります。日本との深い交流で知られる百済ですが、この地に百済からの移民が住んでいたのかもしれませんね。
春日若宮神社の石灯籠と百済寺三重塔。
左手の木に囲まれた場所が梵字池です。
春日若宮神社の拝殿。
狛犬が陣取って邪悪なものの侵入を防いでいます。
春日若宮神社の御祭神は天押雲根命です。拝殿向かって左手前にはずらりと境内社が並んでいます。厳島神社、迎田神社、三日月神社、日吉神社、八坂神社、春日神社、天満神社、稲荷神社など実に多種多様な神様が境内を守ります。
春日若宮神社の境内社。
それぞれの祠の前に鳥居が建っており、これがまた独特な雰囲気を醸します。
石標に「迎田社」と刻まれています。
ブロック塀に囲われた祠が並んでいる様子が分かります。迎田神社とのことですが、あまり聞き慣れない神社名ですよね。
民家を背後に祀られた迎田神社。
庶民の生活と共にある神様であることが伺えます。
こちらは拝殿に近い場所に祀られていた熊野大神社。
比較的新しい鳥居と祠です。
榊が供えられ、注連縄と紙垂で結界が張られています。
神社の祈りの場でよく見かける榊ですが、そもそも榊は「境+木」に由来するとも言われます。俗界と聖域を分けるボーダーライン、その境目に供えられるから榊(さかき)なのだと聞いたことがあります。
居並ぶ鳥居と三重塔の風景。
百済寺のオリジナリティを示すアングルではないでしょうか。
神社の狛犬を構図の中に入れて、古色蒼然とした三重塔を写すこともできます。
様々な ”遊び” が楽しめる境内と言えなくもありません。
山部赤人の万葉歌碑
百済寺三重塔の右手に、万葉集に詠われた歌が紹介されていました。
百済野の萩の古枝に春待つと 居りし鶯 なきにけむかも
百済野(くだらの)の萩の古い枝に、春を待っていた鴬(うぐいす)はもう鳴いたでしょうかと詠っています。
万葉歌碑の右手に萩の花が咲いていました。
訪れたのは10月20日を過ぎた頃ということもあってか、既に見頃を過ぎた萩ではありましたが、昔の百済を偲ばせるに十分な演出です。揮毫は万葉学者の犬養孝氏のようです。
山の辺の道の万葉歌碑は見慣れていますが、ここ百済の地でも歌碑を見ることになるとは思いませんでした。
百済寺周辺には、歌心を刺激する長閑な田園地帯が広がっています。
重要文化財を示す立札。
四方に廻縁が張られた初層を見ていると、かすかに彩色が施されている様子が見て取れます。中央に板扉、左右の両脇間には連子窓が取り付けられています。軒は二軒で繁垂木を打ち、組物は和様三手先で造られています。
春日若宮神社拝殿前の狛犬から三重塔を望みます。
どの角度から見ても、歴史に裏打ちされた美しい姿を魅せる三重塔にしばし見入ります。
百済寺の周辺地図。
百済寺から北の方向には十一面観音檀像で知られる与楽寺が佇みます。さらにそこから西へ取れば、2mを超える大型の木造十一面観音立像が安置される正楽寺があります。百済寺の西方には広陵町役場があり、県道田原本・広陵線を挟んでさらに南には南郷環濠集落が広がります。
広陵町役場には広陵町文化財保存センターも併設されていますので、そこで資料を手にしてから広陵町の観光に出掛けるのがおすすめです。
百済寺公園に貼り紙がありました。
どうやら危険なセアカゴケグモが出没するようです。数年前に平城宮跡を訪れた時も、同じようにセアカゴケグモに対する注意喚起が行われていたことを思い出します。決して触ってはいけません。もし、セアカゴケグモにかまれたら患部を水で洗い流してすぐに病院へ直行して下さい。
百済寺周辺のバス路線図。
広陵町役場から百済二条、百済神主、百済新子、百済寺公園前、百済渕口(常葉保育園駐車場前)、百済森、広瀬杉ノ木と停留所が続きます。それにしても、百済と名の付く停留所が多いですね。
既にご案内しておりますが、百済寺へのアクセスは百済寺公園前で下車して頂くことになります。
百済寺の拝観料は特に必要ありません。境内を自由に見学することができます。駐車場も無料ですので、気軽に立ち寄れる観光スポットとしてご案内しておきます。
<百済寺の拝観案内>
- 法会行事・・・4月15日百済会式 8月15日百済寺法要
- 交通機関・・・近鉄大阪線大和高田駅より奈良交通バス竹取公園東行き乗車、疋相南口バス停下車東へ徒歩30分 西名阪自動車道法隆寺ICから県道大和高田・斑鳩線を南へ20分
- 問合せ先・・・広陵町教育委員会 文化財センター TEL:0745-55-1001