大きい口の鬼です。
裂けていると言ってもいいでしょう。魔除け効果を狙ってか、かなり恐ろしい顔をしています。葛城市歴史博物館のシンボルマークにも採用される、地光寺(じこうじ)出土の軒丸瓦。歯を剥き出し、憤怒の表情で迫ります!
地光寺の鬼面文軒丸瓦(きめんもん のきまるがわら)。
古代寺院の地光寺ですが、今も脇田神社境内に塔の礎石が残っています。脇田神社付近は地光寺の東遺跡に当たり、その西方には西遺跡があるようです。
薬師寺式伽藍配置の地光寺東遺跡
古代寺院と言っても、現地にはほぼ何もありません。
かつての栄華を偲ぶのは難しいのですが、葛城市歴史博物館へ行けば繁栄の跡を見ることができます。
薬師寺式伽藍配置の東遺跡。
脇田神社付近に、こんな立派な寺域が広がっていたんですね。手前から中門、東西両塔、金堂、講堂の並びでしょう。今はわずかに塔心礎だけが残っています。
地光寺跡の解説文。
忍海郡でただ一つ古代寺院跡である地光寺(じこうじ)は、鬼面文軒丸瓦(きめんもんのきまるがわら)と葡萄唐草文軒平瓦(ぶどうからくさもんのきひらがわら)が発見されたことで早くから知られています。脇田神社付近の東遺跡と笛吹字地光寺(ふえふきあざじこうじ)の西遺跡があります。東遺跡では東西両塔の心礎と考えられる2個の礎石があり、西遺跡では塔跡と思われる一辺11.2mの地覆石(じふくいし)が検出されています。鉄滓(てっさい)やふいごの羽口(はぐち)などが出土していることから、鉄生産にかかわった渡来系氏族の忍海氏の氏寺と考えられています。
■地光寺跡の伽藍と条里
地光寺跡は、薬師寺式伽藍配置をもつ東遺跡が7世紀後半から終わりごろ、四天王寺式伽藍配置と推定される西遺跡が8世紀初頭から前半に創建されたものと思われる。それぞれの寺跡を忍海郡の条里におとしてみると、前者は条里と一致しないことから、条里制が実施される前に建てられていた可能性があり、後者は寺域が条里と一致することから、条里制の施行以後に建てられたことがわかる。
忍海氏は鉄生産に従事した渡来系氏族だったんですね。
条里制にすっぽりハマる西遺跡に対し、東遺跡は一致していないのが一目瞭然です。東と西で時代のずれがあったようです。
葛城市歴史博物館。
近鉄御所線忍海駅のすぐ近くにあります。
地光寺出土の葡萄唐草文軒平瓦(ぶどうからくさもん のきひらがわら)。
アーティスティックなデザインは、時空を超えて現代とつながります。私たちが見ても、美しいと感じますよね。
地光寺旧跡周辺には、渡来系工人が多く住んでいたと言います。古代瓦の意匠にも、大陸の匂いが感じられます。海を越えた人々によって支えられた地域であることを再認識しました。