山添村の中峰山(ちゅうむざん)エリア。
三重県伊賀市に近い場所で、山添村の北東部に当たります。五月橋インターチェンジから少し南へ下った辺りに神波多(かみはた)神社という古社がありました。疫病除けの牛頭天王を祀るようです。
神波多神社。
織田信長の伊賀攻めにより、詳細な由緒は不明です。神波多神社の本殿ですが、棟札などから江戸時代(17世紀中頃)の建立と考えられています。
神波多神社の獅子神楽!10月の天王祭り
山添インターチェンジ近くの長寿岩を見学した後、岩尾神社の磐座を目指しました。
残念ながら場所を特定することが出来ず、少し舞い戻って神波多神社にお参りすることになります。
「郷社神波多神社」と刻む社号標。
狛犬の奥には朱色の二の鳥居が建ちます。鳥居のスタイルは「両部鳥居」ですね。石段には謎の盃状穴がありますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。
神波多神社の拝殿。
向拝(こうはい)が迫り出し、参拝客を出迎えます。扁額に目をやると、「正一位牛頭天王」と書かれていました。南向きに建つ拝殿前に立つと、すぐ背後には崖が迫っていました。
横から本殿を撮影。
神波多神社本殿は奈良県の指定有形文化財です。
桧皮葺の五間社流造り、礎石建てで、千鳥や向唐破風によって外観に変化を持たせています。数多くの棟札があり、元禄4年(1691)のものが最も古いようです。17世紀中頃の建立と目されます。
三重交通のバス停「波多野神社前」。
バスでアクセスするなら、こちらの停留所で降ります。
神波多神社前には駐車場がありませんでした。
民家の横にわずか1台分の路駐スペースがあり、短時間ならいいだろうと利用することに。こういう時ってゆっくり参拝出来ないのですが、致し方ありませんね。
神波多神社の案内板。
神波多神社(牛頭天王)は「延喜式」神名帳(927)にその名が見られる古社で、「延喜式」臨時祭に機内堺10か所に祀った疫神のうち「大和与伊賀堺」に祀られた疫神であると考えられている。
また、本殿西方から出土した平安期の古鏡や、正和元年(1312)の銘を刻む石燈籠(村指定文化財)があるなどから、かなり古くから信仰を集めていたようである。
天正9年(1581)織田信長の伊賀攻めの際に兵火に遭ったと伝えられ、縁起等の資料を欠き沿革の詳細は明らかでない。当社の祭神は、素戔嗚命のほか春日大神・櫛稲田姫命を祀る。古来から「波多の天王」と呼ばれ、大和・伊賀・山城など広くにわたり崇敬者が多い。
江戸時代前期(17世紀中頃)の建立と推定される本殿は、奈良県指定文化財(建造物)である。建立以来一度も根本的な解体修理がなかったことから各部が緩み放置できない状態になっていたので、保存のため平成6年から同7年(1995)にかけ初めての解体修理が行われ、創建当時の姿に戻った。
主なお祭は祈年祭(2月25日)祇園祭(旧6月13日)例祭(10月第4土曜日)新嘗祭(11月25日)である。
二の鳥居をくぐり、来た道を振り返ります。
どうやらこの先に一の鳥居があるようです。かなりアップダウンの激しい場所ですね。
県指定文化財の神波多神社本殿。
神波多神社では疫病から人々を守る「牛頭天王」と呼ばれる除疫神を祀り、古くから地域の信仰を集めてきました。本殿は社殿建築の様々な技法を用いた建造物で、社殿建築の歴史的発展を考える上で重要なものです。また「棟札」と呼ばれる建築・修築の記録を記した木札が数多く残されており、1691年(江戸時代、元禄4年)のものが最も古く、建立は17世紀中頃と考えられています。
拝殿に掲げられる牛頭天王の扁額。
拝殿の真ん中は通り道になっていました。鈴緒の向こうに垣間見えるのが本殿でしょうか。
鐘楼ですね。
境内の北一帯は真言宗豊山派の「善明院」というお寺でした。おそらくかつての神宮寺なのでしょう。
神波多神社の北側には、八柱神社と六柱神社が祀られています。
こちらは社務所ですね。
軒下には多くの絵馬が奉納されています。
うん?
プロペラでしょうか。
こういうのを見ると、大和郡山市の矢田坐久志玉比古神社の楼門を思い出しますね。
謂れが気になるプロペラですが、辺りを見回しても案内板のようなものはありませんでした。
歴史を感じさせる絵馬の数々。
普段は静かな神波多神社ですが、秋祭りには獅子神楽で賑わいを見せます。
秋季例祭の「天王祭り」で奉納される獅子神楽・・・お渡りの際、獅子舞や天狗、鬼、道化が悪魔を祓いながら牛の宮まで練り歩く習わしです。
天狗や道化の持つ「棒ササラ」で頭を叩いてもらうと、元気で賢く成長出来るようです。さらには獅子舞に頭を噛んでもらい、無病息災のご利益に授かります。山添村の無形民俗文化財に指定される獅子神楽、これは必見ですね。