十一面観音を御本尊とする大願寺(だいがんじ)。
道の駅『宇陀路大宇陀』のすぐ裏手にあり、境内の狛虎が目を引きます。紅葉の名所とされますが、私が訪れた初夏には紫陽花が咲いていました。
紫陽花と本堂。
寂びた本堂内には、徳道上人が神亀元年(724)に彫ったという十一面観世音菩薩立像が祀られています。向かって右手の外陣には愛嬌あふれる賓頭盧尊者が座っていました。
おちゃめ庚申と狛寅が見所!真言宗御室派の大願寺
国道166号線と370号線の交わる場所にある道の駅。
歴史散策の重伝建地区にも程近く、多くの観光客が利用する ”旅の拠点” です。
大願寺の山門。
足湯なども併設する「道の駅」は賑やかですが、一歩裏手に足を踏み入れると実に静かです。
山号の「薩埵山(さったさん)」と書かれた額が掲げられていますね。実はこの文字、宇陀松山藩第四代藩主の織田信武の直筆によるものだそうです。山門の向こう正面に見えているのが、信武建立の毘沙門堂です。
おちゃめ庚申。
漫画風の庚申石仏で、天保14年(1843)の作と伝わります。
庚申さんということで、手前には身代わり猿も吊られています。浮彫にされているのは青面金剛像で、4本の手に矛・宝輪・数珠・虫を持ち、四方には月や日、猿などが配されます。
なかなかインパクトのある庚申仏ですね。
毘沙門堂の前の狛寅。
通常この位置に居るのは狛犬ですが、大願寺では虎でした。
髭も凛々しく、堂内の毘沙門像を守ります。
大願寺の創建は飛鳥時代と伝わります。
聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと言われ、この狛寅の謎も解けたような気がします。信貴山朝護孫子寺にも語り継がれる「寅年、寅日、寅刻」・・・聖徳太子が物部守屋との戦いに際し、毘沙門天に助けられたのが「三寅」のタイミングでした。そう、虎は毘沙門天の使いなのです。
大願寺の看板。
旧織田公祈願所、大願成就と薬草料理の寺と記されています。
国道370号線沿いの看板から大宇陀中学校の脇を上がって行きます。
程なく左手に大願寺の駐車場がありました。
ちなみにお寺の上手にも駐車場が用意されています。
さらにこの先を進みます。
このアクセスルートの左手下段には道の駅があります。
大願寺へ続く石段。
いいですね、この雰囲気。
苔生しています。
すぐ近くには国道が走り、比較的交通量の多い場所です。そんな中にあって、十分に「山寺」の雰囲気を醸し出します。
山門を入ったところ。
真正面に毘沙門堂、その右手に本堂、本堂手前には薬草料理を提供する食事処がありました。さらに毘沙門堂の左手奥へ上がって行くと、加賀の白山神社を勧請した白山権現社が祀られていました。
大願寺の沿革。
当山は薩埵山(さったさん)・成就院・大願寺と称し、真言宗御室派仁和寺末で、寺の創建は推古時代(約1400年前)で聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立させたと伝えられている。
御本尊十一面観世音菩薩は、弘仁式で弘法大師作または徳道上人作で、その御尊前に長谷寺建立、大蔵寺建立の大願を誓われたと伝えられ、後観音様は火災に遭うも焼けずに発見されたので「焼けずの観音」で、「災難除け」の観音様として信仰されている。
大願寺は歴代城主である織田信長の二男信雄(のぶかつ)より松山城主高長、長頼、信武公に亘り、信仰厚く当寺で諸祈願されたと古文書に記載されている。
毘沙門堂は室生の大杉一本で建立され、毘沙門天は長頼公が鞍馬毘沙門天と同作の毘沙門天を勧請し祀られた。
御本尊の御前で、大蔵寺(おおくらじ)建立の大願も誓われたのですね。
宇陀市大宇陀栗野にある大蔵寺も聖徳太子創建と伝わります。奈良の長谷寺が出来る前、大願寺の十一面観音に誓いが立てられたことを知ります。”長谷観音の前の観音様” ということですね。
白山権現社は、長頼公が延宝2年に氏神である加賀の国(石川県)の白山神社にお参りするのが遠いので、当大願寺に勧請し織田家歴代の氏神として祀られた。
稲荷社は末廣大明神 延宝年間の創立である。
仏足跡は文化元年に森野薬草園を開いた賽郭翁の孫好徳の寄進よる、釈迦32相の中の5相の足で奈良県下でこの相は此処だけである。山門の額は織田信武公の直筆である。
庚申さんは青面金剛像でお姿は劇画省略され「おちゃめ庚申」で知られ、天保14年の作である。
筆塚は賽郭翁の孫好徳の筆塚である。
薬草料理の食事処。
薬狩りの歴史が伝わる阿騎野の地・・・ここ大願寺では、薬草や吉野葛を使った精進料理が人気です。
毘沙門堂と狛寅。
京都の神社巡りをしていると、大豊神社の狛鼠や岡崎神社の狛兎に出くわします。ネズミやウサギも珍しいのですが、やはり猛獣の虎は迫力が違います。
堂内安置の毘沙門像は元禄6年(1693)の作と伝わります。
毘沙門天といえば、京都市内を見下ろすように立つ鞍馬寺の尊像を思い出すわけですが、それと同作の毘沙門天が勧請されているようです。造像には室生山の大杉が使われたと伝わります。
吠えます!
向かって左側の狛寅が阿形のようです。
普通であれば、右に阿形・左に吽形という並びですよね。大願寺の虎は、右側に口を閉じた吽形のトラが陣取っていました。虎に毘沙門天、実に見事なコンビネーション!
大願寺の毘沙門堂。
山号を記した織田信武建立のお堂ですね。
毘沙門天は別名を多聞天とも呼ばれ、七福神の中にも数えられている仏です。戦勝の仏としてあがめられていましたが、今では福や財を与える仏として信仰されています。毘沙門天真言をお唱え下さい。
「おんべいしらまんだやそわか」
七福神の中の毘沙門天(多聞天)。
大願寺は「七福寺」とも呼ばれ、戦勝祈願のご利益も根強く残っているものと思われます。
「毘沙門講中」と刻まれます。
寛永7年(1630)に父信雄(のぶかつ)の家督を継いだ宇陀松山藩第二代藩主の織田高長。大願寺を祈願所とした高長の後、3代藩主織田長頼、4代藩主信武と寺運の隆盛に努めます。
毘沙門堂の向かって左に建つお社。
稲荷社でしょうか。
毘沙門堂の奥に本堂を望みます。
やはり初夏は紫陽花ですね。
「四片(よひら)」の別名を持つ紫陽花。
その名の如く、四枚の花びらを開かせていました。
稲荷社の社殿。
屋根の上には千木や鰹木も見られます。
背後に石段が続いていますが、その奥に白山権現社が祀られていました。
稲荷宝珠でしょうか。
稲荷社瑞垣内から毘沙門堂を望みます。
さぁ、いよいよお寺の心臓部である本堂へと足を向けます。
仏足石にハンカチノキ!大願成就のお寺
本堂に祀られる大願寺の十一面観音は「試みの観音」とも称されます。
ちょうど喜光寺本堂が「試みの大仏殿」と呼ばれるように、本物を造る前の ”試作段階” を思わせます。喜光寺本堂をお手本にして東大寺大仏殿が造られたように、大願寺十一面観音を参考にして長谷寺十一面観音が造像されたのでしょうか。
大願寺本堂。
本堂でありながら、なぜか位置的には毘沙門堂の脇に当たります。
実はこのお堂、明治18年(1885)に ”本堂焼失” の憂き目に遭います。
その際、御本尊の頭部と両腕が欠損しましたが、後に土中から発見されて復されました。明治の火難を経て、『焼けずの観音』として新たに火災厄除の霊験が加わることになります。
本堂右手前の賓頭盧尊者。
立派な御殿に収まる ”びんずるさん” 。
施無畏印と与願印を結びます。
愛嬌のある表情をなさっていますね。
本堂の案内書。
本尊大悲十一面観世音菩薩を安置している。
御本尊は徳道上人或いは弘法大師の御作と伝えられ、長谷寺建立の大願を誓い満願の夜、霊告を得て、御丈3尺3寸3分の尊像を彫刻し納められたのが当御本尊で「試みの観音」と称せられている。
また、長谷寺完成の喜びを現して大願が成就したので、当山を薩埵山成就院大願寺と号せられた。
領主織田出雲守も霊感を感得して信仰し織田家祈願所とされた。明治18年に本堂が全焼、明治20年には暴風雨により倒壊の難に遭うも、後に土中より御本尊が発掘された。よって「焼けずの観音」として信仰されている。大正13年文部省社寺調査で弘仁式と確認された。
”大願成就の大願寺” なのですね。
大願寺には「成就院」という院号も付されています。
徳道上人作なのか、あるいは弘法大師空海作なのか定かではありませんが、いずれにしても由緒ある仏像であることに違いはありません。長谷寺建立の歴史とも深いつながりがありそうですね。
おちゃめ庚申の案内。
本堂向かって左方向を指します。
大願寺のおちゃめ庚申。
堂内左側の石仏がそのようです。
劇画タッチで彫られた庚申石仏。
江戸時代に庶民の間に広まった庚申講ですが、その名残を見ることができます。
おちゃめ庚申の案内書。
天保14年(1843)彫刻の青面金剛像(庚申)で4本の手に矛・宝輪・数珠・虫を持ち、月・日や猿を表している。
60日ごとに来る庚申(かのえさる)の夜に、人の身体に潜む三尸虫(さんしちゅう)という虫が寝ている間に抜け出し、罪過を帝釈天に告げに行くという。
そこで庚申の夜は講の人々が集まって庚申を祀り、夜を徹して会食・談義で過ごし、早朝に鶏の鳴く声で解散するという風習が江戸時代から庶民の間で行われており、「庚申講」として今日まで続けられている。
当庚申は劇画省略されたところから、おちゃめ庚申と呼ばれる。
もう一つのお堂には役行者が祀られていました。
言わずと知れた修験道の祖ですが、吉野方面へと通じるここ大宇陀の地にも祀られていました。
うん?
これは何でしょう、厨子の中に何か彫られていますね。
狛寅の背中。
尻尾が背中にピタッとくっ付いていますね。割とスマートな虎です。
大願寺の仏足堂。
今までにも多くの仏足石を見て参りましたが、お堂の中に単独で祀られているのは初めてかもしれません。
仏足堂の右横には、モミの木の巨木が聳えていました。
お釈迦様の足跡です。
仏像崇拝が始まる前の信仰の対象でした。
江戸時代後期の本草学者・森野好徳が、文化元年(1804)に寄進した仏足石と伝わります。
ハンカチノキも植えられていました。
ハンカチの木!?
何のことだろうと思って調べてみたら、ミズキ科の落葉高木と出ています。
白い花びら状の苞(ほう)がハンカチに見えることに由来します。残念ながら既に開花時期は過ぎていましたが、まだ青々とした葉っぱは残っていました。
ハンカチノキの葉。
原産地は中国のようです。
4月から5月にかけて開花するようで、また機会があれば訪れてみたいと思います。
白山権現社の解説パネル。
宇陀松山藩主、織田長頼公が延宝2年(1674)氏神である加賀の国(石川県)の白山神社を勧請し織田家歴代の氏神として祀られた。
稲荷社の左手に伸びる階段を上がると、長頼勧請のお社があります。
織田家歴代の氏神なんですね。
織田家が崇拝した白山権現社。
丘の上のひっそりとした神域で、人の気配がありません。
鬱蒼とした杜の中に鎮座します。
大願寺の住所である拾生(ひろお)は平地を意味しています。
国道が交わり、人や車の往来が激しい場所です。平地ならではの地名ですが、一歩山手へ足を踏み入れると、静かな大願寺境内が広がっています。そこからさらに丘陵上にある白山権現社は別世界でした。
仏足石や狛寅、おちゃめ庚申など見所の多いお寺です。
宇陀市へお出かけの際は、是非一度お参りしてみましょう!