子嶋寺に残る高取城遺構

高市郡高取町観覚寺(かんがくじ)に佇む子嶋寺(こじまでら)。

四神壁画で知られるキトラ古墳へも徒歩圏内でアクセスできるお寺です。

明日香村の高松塚古墳を右手に見ながら車を走らせ、近鉄飛鳥駅の手前で左折します。そのまま道なりに進んで行くと、程なく左手に公園整備中のキトラ古墳が見えてきます。亀虎橋を渡ってさらに進むと、子嶋寺の駐車場を案内する看板が見えて参りました。

子嶋寺

子嶋寺の山門から本堂を見ます。

子嶋寺の宗派は真言宗です。真言宗と言えば弘法大師空海ですが、お寺には弘法大師を通じて嵯峨天皇に献上された国宝が伝わります。

胎蔵界と金剛界の二つの世界が、金泥・銀泥を使って荘厳に描かれた紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(こんあやじきんぎんでいえりょうかいまんだらず)。その由来は2,800年前のインドにまで遡り、中国を経て弘法大師の手に渡ります。嵯峨天皇に献上された後は、200年近くも宮中の本尊とされていました。一条天皇の御代になり、天皇の病気平癒を祈願した真興(しんごう)に褒美として与えられ、子嶋寺の宝物として伝わります。

子嶋曼荼羅!日本三大両界曼荼羅の国宝
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子嶋寺の山門は高取城二の門

現在の子嶋寺の山門は、高取城の二の門が移築されたものです。

日本三大山城の一つに数えられる高取城。

美濃岩村城、備中松山城と共に我が国の三大山城に名を連ねる大和高取城の遺構を、ここ子嶋寺の山門に見ることができます。歴史に名を残す天誅組の変では、わずか200名の兵で高取城攻めに対抗したと伝わります。

ちなみに土佐街道の札ノ辻まで足を延ばせば、高取城松の門に行き当たります。

子嶋寺の花

山門をくぐって境内に入ると、本堂右手前に初夏の花が咲いていました。

「子嶋山観覚寺」と刻まれた石標らしきものが建っています。背後には十三重石塔も見えますね。子嶋寺の十三重石塔は、一条天皇から下賜されたものと伝えられます。

子嶋寺山門

子嶋寺の山門を横から撮影。

現存する高取城の唯一の遺構と言われるだけあって、その佇まいに息を呑みます。

高取城を含め、奈良県内には意外とお城があったことに気付かされます。近鉄大和郡山駅前の大和郡山城跡、奈良市法蓮町の多聞城跡、橿原市十市町の十市城跡、桜井市芝の芝村陣屋跡、磯城郡田原本町の田原本陣屋跡等々が挙げられます。

子嶋寺山門

歴史を感じさせる構造が見られます。

お城の名残を感じさせる桜井市芝は、私の通っていた中学校区に入ります。そこから程近い箸中エリアには的場という苗字が散見されます。お城が近くにあったため、弓を射る練習場である「的場」が数多くあったことに由来すると聞いたことがあります。同じように束明神古墳のある高取町佐田地区にも、的場という苗字があちこちに見られます。歴史の名残が苗字となって表れている例ではないでしょうか。

子嶋寺山門

こちらは腰をかがめて出入する通用門のようです。

大きな蝶番に歴史の重みが感じられます。

子嶋寺山門

子嶋寺の歴史は天平宝字4年(760)に孝謙天皇の勅願により、報恩法師が建立したことに始まります。あるいは桓武天皇が子嶋山寺を建立したという記録も残されており、諸説紛々としています。

さらに永観元年(983)に、興福寺から来寺した真興が観覚寺を建て、真言宗小嶋流を起こして隆盛を極めたと伝えられます。

そこから時代は下り、戦国時代の兵火に見舞われ、子嶋寺は衰退の一途を辿ることになります。

天正年間(1573~1592)に入り、高取城主の本多氏が寺を再興し千寿院と名付けます。さらに明治以降には表門の再建が行われ、寺の名前も子嶋寺と改められて今日に至ります。高取城主の本多氏や植村氏の厚い庇護を受けたことが、今の子嶋寺へと繋がる布石になったようです。

子嶋寺山門

高取城周辺は、7月や8月になるとマムシが出没すると言われます。

高取城の立派な石垣を見学するために出向く人も多いでしょうが、十分な注意が必要ですね。高取城跡と言えば猿石がよく知られますが、まだ一度も実物を見たことがありません。飛鳥駅近くの猿石へは何度も足を運びましたが、近い内に高取城跡の猿石も見学しておきたいと思います。

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子嶋寺へアクセス

子嶋寺へのアクセス方法ですが、近鉄壺阪山駅経由とマイカーの二通りがあるものと思われます。

近鉄吉野線壺阪山駅からは、国道169号線をまたいで東へ徒歩10分となっています。お車でのアクセスは、国道169号線を飛鳥から吉野方面へ向かって進んで行くと、近鉄壺阪山駅の手前左側に吉野ストアというスーパーが見えてきます。ちょうどその辺りがY字路になっていて、そこを左へ取って進むと子嶋寺へ辿り着きます。

子嶋寺の駐車場

子嶋寺の駐車場。

参拝者専用の無料駐車場です。

駐車場から子嶋寺へは徒歩2~3分ぐらいでしょうか。少し離れた場所に駐車場があります。写真の向こう側が国道方面になります。

子嶋寺龍の池

子嶋寺山門の向かって右手に、何やら小さな社叢が見られました。

鳥居の向こう側に祠があり、その参道両脇には池がありました。ちょっと気になったのでお参りしておくことに致します。

子嶋寺龍の池

どうやら此処は、龍の棲み付く池と言い伝えられているようです。

その昔、龍が大暴れしたとも云われ、今も本堂内に龍の木像が安置されています。

子嶋山子嶋寺

山門前に辿り着きます。

子嶋山子嶋寺と刻まれています。

緩やかな石段を上がって行った所で、高取城の二の門の遺構が参拝客を出迎えます。

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京都清水寺建立と子嶋寺

子嶋寺は実は、京都の清水寺建立に深く関わっています。

子嶋寺創建者とされる報恩の跡を継いだ二代目の延鎮(えんちん)。彼は夢の中で、観音様のお告げを受けることになります。お告げに従い、京都東山の麓に「音羽の滝」を探し当て、そこで修行をしていました。

そこへ、坂上田村麻呂が妻の安産を願い、鹿を求めて音羽山へやって来ます。延鎮から殺生を戒められたことにより、坂上田村麻呂は延鎮に帰依することになります。さらには延鎮が同郷の高取町子嶋山寺の住職であることを知ることになります。機縁を感じた二人は、霊地である東山に十一面千手観音を安置し、清水寺を建立したと伝えられます。

修学旅行生や外国人観光客で賑わう京都随一の観光スポットである清水寺。それに対し、場末の静かな佇まいを見せる子嶋寺が見事なコントラストで浮かび上がります。

子嶋寺本堂

子嶋寺本堂。

この本堂は、江戸時代末期の嘉永元年(1848)に壷阪寺の僧賢応によって建立されています。

子嶋寺の二代目が、清水寺建立に深く関与していたとは意外な発見ではないでしょうか。立地上、京都の清水寺に対し、南清水寺と呼ばれていた時期もあります。

子嶋寺の十三重石塔

子嶋寺の本尊は大日如来像とされます。

東京国立博物館に寄託中の木造十一面観音立像も寺宝で、国の重要文化財に指定されています。子嶋寺縁起によれば、報恩法師の作で桓武天皇の持仏であったと伝えられます。

子嶋寺のお知らせ

山門の手前にお札が立てられていました。

「お願いとご連絡」と題し、大和七福八宝めぐりの「大黒天」札所寺院が子嶋寺から長谷寺に変更になった旨が案内されていました。大和七福八宝霊場会の事務局は安倍文殊院にあるようで、その電話番号が記されています。

大和には七福を与え、七難を取り除いてくれる七福神が住むと言い伝えられます。

変更になったいきさつは定かではありませんが、年をまたいで霊場巡りをしている参拝者には注意が必要ですね。

子嶋寺のお不動さん

本堂の前庭にはお不動さんの姿も見られました。

何気ない仏像にも、その歩んできた歴史が偲ばれます。

子嶋寺の井戸

こちらは井戸でしょうか?

境内の片隅にひっそりとその姿をたたえています。

子嶋寺千寿院

本堂右手の千寿院。

高取城主であった植村氏の念持仏が祀られています。千寿院の周りは鬱蒼とした緑に囲まれています。夏場は生い茂った木々をかき分けながら、お堂の前まで進みます。蜘蛛の巣に引っ掛かったりしながら、鄙びた風情の千寿院の外観を愛でます。

子嶋寺千寿院の瓦

千寿院の縁側に屋根瓦が置かれていました。

このように先のくるっと丸まった模様を、唐草文様と言うのでしょうか。

金剛力酒造のベンチ

本堂向かって右の軒下に、子嶋寺と書かれた空き缶が置かれています。

手前には金剛力酒造さんのベンチですね。

子嶋寺に開花する花

子嶋寺に伝わる国宝の両界曼荼羅図。

残念ながら子嶋寺で見ることのできるのは複製です。本物の両界曼荼羅図は奈良国立博物館に寄託されています。

観覚寺

浄財と記された賽銭箱の上に目をやると、「観覚寺」の文字が見えます。

小さなお寺に国宝を置いておくわけにはいかないのでしょうか。最新の防火設備の整った奈良国立博物館であれば、確かに安心は安心です。しかしながら、本来のあるべき場所に無いというのも少し悲しいような気も致します。

観覚寺と称していた頃は、南都七大寺に勝るとも劣らない勢いがあったと云います。今の子嶋寺の伽藍からは想像もつきませんが、本堂をはじめ、御影堂や三重塔など23棟の建物が並び、子院や子坊が21箇所にも上ったと言います。

子嶋寺の花

境内から山門を望みます。

山門から西へ真っ直ぐ進むと、歴史的風情に満ちた高取れんじの道へと出ます。

子嶋寺の手水

本堂を背景に、手水の龍の頭を写します。

子嶋寺は仏像愛好家の間でも人気があり、征夷大将軍坂上田村麻呂の自作像や飛鳥時代の仏頭、延鎮僧都像など素晴らしい仏像の数々を堪能することができます。

子嶋寺の道案内

高取れんじの道沿いにあるカーブミラーに、子嶋寺への道案内が出ていました。

ここから右手に目をやると、子嶋寺の山門が見えています。

偉容を誇った高取城でしたが、悲しいかな明治政府により取り潰されました。武士の残党が城に籠城しないようにとの意向が働いていたものと思われます。

無量山光永寺

高取れんじの道を南へ進むと、程なく左手に無量山光永寺が見えて参ります。

光永寺は人頭石で有名なお寺です。古代飛鳥には謎の石造物が多数存在していましたが、人頭石もその内の一つとされます。現代の行政区分では高市郡高取町に当たりますが、明日香村と一括りにしても問題は無いのではないでしょうか。

子嶋寺山門

高取城の二の門。

山門入って左手に見えている建物は寺務所でしょうか。

子嶋寺にお参りした後、先日も訪れたマルコ山古墳を再訪し、その足で佐田の束明神古墳へと向かいました。その他にも、子嶋寺のおすすめ周辺観光スポットとしては壷阪寺、キトラ古墳、高皇産霊(たかみむすび)神社などが挙げられます。

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子嶋曼荼羅と子嶋寺拝観案内

国宝の両界曼荼羅図 子嶋寺

住所:奈良県高市郡高取町観覚寺544

<高取町観光案内>

  • 拝観料 :300円
  • 駐車場 :無料
  • アクセス:近鉄吉野線壺阪山駅より徒歩10分

そもそも曼荼羅とは、丸い・完全・円満といった意味を持ち合わせています。宇宙の真理とも言うべき、円満具足の秩序を表しています。その真理は言葉では言い表すことが出来ないため、一定の秩序の保たれた絵の中に込められます。

曼荼羅はcosmos(コスモス)なのです。

仏の教えを正しく後世に伝えていくことは難しいものです。

頭で理解していたつもりでも、本当には分かっていないことが多いものです。知識の上滑りにより、なかなかその本質には迫れないものなのかもしれません。頭で考えずに感じろ!とよく言いますが、まさしく曼荼羅は感性で感じ取るものです。言葉ではなく、イメージで訴えかけてきます。もちろん、それを理解するためには土台が必要です。仏の教えをまずは言葉で理解する準備が欠かせません。徹底的にロゴスで教えを体の中に沁み込ませた者だけが、感じ取ることの出来る世界観なのでしょう。きっとそこには何の衒いも無く、肩の力の抜けた静かな世界が広がっているものと思われます。

子嶋寺に伝わる国宝・両界曼荼羅図。その複製を見るだけでも、このお寺に参拝する価値は十分にあります。

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