遊ぶとはボンヤリすることを意味します。
遊ぶの「あそ」は「うそ」に通じます。内容の無い空虚な「嘘(うそ)」、そのウソこそが遊ぶことの原点なのです。
春日大社の若宮さん。
自分を無にすることによって、初めて何かが入って来る。
無心になることの大切さは、事あるごとに学んできたつもりなのですが、敢えて自分を空っぽにすることが遊ぶことに通じているとは改めてその意味が問われます。
遊びは神様の神託を受ける間
元来は神事の際の芸能を意味した「遊び」。
今では神事に限らず、子供が公園ではしゃぎ回ることも遊びであり、大人が思い思いの趣味に興じることも遊びです。ビジネスシーンにおいても、遊びを通じて仕事が展開していくことはよくあります。
自分を空っぽにする。
得意先や顧客とのやり取りをキャッチボールに例えるなら、自分のグローブにボールが収まっている状態を出来るだけ短くする必要があります。ボールを受け取ったらすぐに投げ返す。メールのやり取りでも、リプライはできるだけ早い方が好まれます。とにかく自分を空っぽにしておく。そのことによって、次の展開がよりスピーディに始まります。
大神神社祈祷殿。
遊びは神様のお告げを享けるために、事前に準備しておく「間(ま)」であると言えます。
邪馬台国の女王卑弥呼の神がかりはよく知られるところですが、神託を一般庶民に伝える役割を担う巫女は、神様の前で踊り狂ったりしながら自己を虚脱状態にします。一種のトランス状態です。音楽もガンガン演奏して正気からの逸脱を図ります。音楽を奏することが、そもそも遊びなのです。平安時代の神楽は、まさしく神遊びそのものだったと言えるでしょう。
野口神社。
年末になると部屋の大掃除に取り掛かりますが、机の上の要らなくなった物を捨て去って、一旦リセット状態にする。そうすると、不思議と心の中もスッキリしてくるものです。空っぽにすることによって、新たな「気」が入って来る。そんな経験をしたことのある人は多いのではないでしょうか。
部屋の中の刷新された空気に包まれていると、確かにその空気が「空っぽの気」であることが分かります。
遊びの生まれた空間には、何だか知らないけれども神様が降りて来る。
どうもそんな気がしてなりません。
いいアイディアは得てして外出先で浮かんだりするものです。あるいはトイレの中だったりします。机上ではいくら頭をひねっても浮かばなかった名案が、ふとした拍子に訪れます。遊びの空間に居ることがポイントなんだと思います。
耐震構造に優れた高層ビルや五重塔にも遊びの部分があります。自動車のハンドルにも遊びがあります。遊ぶことによって危険が回避され、丈夫で長持ちなのです。近代技術の発展によって、ややもすれば傲慢になりがちな現代社会。謙虚な気持ちに立ち返り、神様の前で遊んでみることも大切なのかもしれませね。