桜井市外山にある真言宗のお寺、藤原山不動院をご案内致します。
国道165線沿いに鎮座する宗像神社を参拝し、その足で北へ向かいます。程なく右手に「南無不動明王」と書かれた赤い奉納旗が見えてきます。平安時代に登美山鎮座の宗像神社が創始された際、村の鎮守として祀られていたという外山のお不動さんです。
藤原山不動院の本堂。
本堂内には御本尊の木造不動明王坐像(重要文化財)をはじめ、脇仏として大日如来、阿弥陀如来、十一面観世音菩薩、千手観世音菩薩、如来荒神、神変大菩薩(役行者)、弘法大師座像など数多くの仏像が祀られています。
宗像神社から伸びるアクセスルートを辿り、お寺の階段を上って境内へと入ります。本堂や十三重石塔などの写真を撮っていると、清掃中の女性からお声掛けを頂きました。どうぞお上がりになってお参り下さいとのことで、促されるままに靴を脱いで本堂左横の脇部屋から中に入ります。
瑟瑟座が印象に残る不動明王坐像
本堂内に入らせて頂き、中央奥に祀られる御本尊・不動明王坐像やその手前の護摩壇を眺めていました。
この場所で護摩祈祷が行われているんだなと、素人目にも分かる設えです。小ぢんまりとした本堂内ではありますが、思わず背筋が伸びるような厳粛な空気が流れていました。そこへご住職が来られ、色々とお寺にまつわるお話をして頂きました。急な訪問だったにも関わらず、興味深いご説明を頂まして誠にありがとうございました。
外山不動院のご本尊であらせられる木造不動明王坐像。
昭和63年3月に国の重要文化財に指定された仏像です。過去を振り返れば、この不動明王坐像は飛鳥資料館や奈良県立美術館、上野国立博物館にも出展されています。平成12年4月には、奈良国立博物館の特別展(明王)にも出展された歴史を持ちます。
本尊の周りにはまだ真新しい五大明王が配され、不動明王の脇侍を務めるという制多迦童子や矜羯羅童子の姿も見られます。
不動明王坐像の解説パネルが本堂前にありました。
像高85cm。左目を閉じ、頭頂に沙髻(しゃけい)を表す平安後期の不動明王の姿である。檜材を用いた寄木造で、現状はほぼ古色を呈しているが、当初の華麗な彩色をとどめており、条帛の背面部や裳の一部に切金文様が認められる。二重円相を透かした火炎光背と、七重の瑟瑟座(しつしつざ)が揃う王朝様不動明王像の本格作は、奈良県下でも珍しい。
不動明王が座っている台座に注目です。
仏像の台座といえば、清浄を象徴する蓮華座が一般的なのですが、不動明王の場合は違います。瑟々座(しつしつざ)と呼ばれるダイヤモンドを模ったような台座で、質実剛健で素朴な力強さを感じさせます。
不動明王坐像の台座である瑟々座。
仏像が乗る台座は、その仏像の居場所を示す神聖なものとされます。
角形の材が井桁状に積み重ねられ、中央が絞られたような形状をしています。堅固な岩が表現されており、瑟瑟座は盤石のシンボルとも言えます。荒々しい表情の不動明王にはピッタリの台座ではないでしょうか。
ご住職のお話では、これだけ本格的な瑟瑟座に乗るお不動さんも珍しいのだそうです。不動心という言葉がありますが、外山のお不動さんには何ものにも動じない安定したパワーが漲ります。
大威徳明王ですね。
持ち前の憤怒と慈悲で、諸悪を砕く五大明王の存在も心強く感じられます。
五方(中央と東西南北)に配された明王のことを五大明王と言います。中央にどっかりと居座るのが不動明王で、東には降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、そして北には金剛夜叉明王が配されます。
こちらは不動明王坐像の向かって右下に祀られる矜羯羅童子(こんがらどうじ)。
仏法に対して恭順であることを表す不動三尊の一角です。優しそうな表情をしていますが、それもそのはず、矜羯羅(こんがら)とは奴隷または随順を意味する梵語に由来しています。不動明王の従者八大童子の第七番目に当たり、制多迦童子と共に不動明王の左右に侍ります。
こちらは不動明王坐像の向かって左下に侍る制多迦童子(せいたかどうじ)。
制多迦童子も不動三尊の一人です。同じく不動明王の使者であり、八大童子の第八番目に当たります。右手に金剛棒を執るスタイルが特徴とされます。
藤原一門が身を清めた不動院の歴史
外山不動院の山号は藤原山です。
なぜにまた藤原の名前が付いているのか?疑問に思う人も多いと思われますので、簡単にご説明申し上げます。
その昔、藤原一門が談山神社に参拝する際、外山の不動院で身を清めてから登山したという話が伝わっているのです。ご存知のように多武峰の談山神社には藤原鎌足が祀られています。鎌足の墓も談山神社奥手の御破裂山にあることから、藤原一族の参詣が行われていたことは言うまでもありません。
不動院から宗像神社の方向を望みます。
高架下のようなルートを通るのですが、頭上には国道165号線が通っています。
外山不動院の本堂。
不動院には天台座主慈圓書の扁額も掛けられているそうです。
兵火によって堂塔伽藍が焼打ちに遭ったこともありましたが、奇跡的にご本尊の不動明王坐像は難を免れます。小さいお堂で村人により大切に保存されてきたお不動さんは、その後4代将軍家綱の上覧に供したこともあったそうです。
本堂向かって右手に建つ十三重石塔(藤原時代)。
欠損することも多い十三重石塔ですが、不動院のそれはちゃんと十三層が残されているようですね。
石碑も建立されていました。
本尊国重文指定記念碑
不動明王尊容台座光背全て創作時の京風を伝える 平安後期作
創作された当時から、ずっと不動明王の本流を伝え続ける仏像です。
片目を眇(すが)めた天地眼(てんちげん)、左肩に髪を束ねて垂らす弁髪スタイル、そして右手に降魔の剣・左手には羂索を持つというスタンダードな不動明王の姿が見られます。
毎月28日の縁日護摩法要
お不動さんの縁日に当たる毎月28日には、本堂内で護摩法会が執り行われています。
護摩法要の日取りは曜日に関係なく、毎月28日の午後2時からと決まっています。縁日護摩法要への参加に際しては、事前連絡等は一切不要です。予約なしで法会に参加できるそうですので、ご興味をお持ちの方は是非一度訪れてみて下さい。
本堂内の護摩壇。
護摩を焚く台の前には、ご住職がお座りになられる小さな畳が用意されています。
護摩焚きは迫力があります。
私は今までに吉野の脳天大神や、山の辺の道の玄賓庵で護摩焚きを見学させて頂いたことがあります。唱えられるお経と共に炎が舞い上がり、熱を帯びながら邪念が払われていく・・・そんな体験をさせて頂きました。
不動明王の光背に見られる猛火には、数羽の迦楼羅鳥が模られていると言います。外山不動院の護摩焚きも、その迦楼羅炎のごとく激しく燃え上がるのでしょうか。
色々な法具があるようですね。
こういった道具一つを取っても、その優れたデザイン性に心を引かれます。
本堂の天井を見上げます。
方形の穴から煙が吸い取られていく仕組みのようです。
堂内の壁や天井は心なしか煤けているようにも見えます。ご住職のお話では、まだこの壁も貼り替えて間がないとのことでした。毎月厳修される護摩法要が繰り返される度に、どんどん黒ずんでいくものと思われます。
護摩壇に樒が置かれていました。
樒(しきみ)は護摩供養にとっては欠かせない植物とされます。
墓地や葬儀会場などでもよく見られますが、独特の香りがあってお香を焚くのと同じ効果があると言われます。口の中に入れると痺れるそうで、魔除けや動物除けとしても使われる植物です。
たくさんの樒が縦長に重ねられていました。
手前の樒はすっかり変色していましたが、向こう側の樒はまだ緑色が残っていて時間の経過を感じさせます。
本堂内には太鼓も置かれています。
音の響きで神様を呼び寄せたりすることがありますが、護摩焚きの時にも太鼓の音が響き渡るのでしょうか。燃え盛る炎に太鼓の音、そこに読経の音が重なって得も言われぬ空間がそこに生まれることでしょう。
「四大明王二大童子開眼記念護摩祈祷会表白」と書かれた願文が飾られています。
真ん中のご本尊を除いた四大明王という意味でしょうか。新たに開眼供養の行われた四大明王と二大童子が、不動明王坐像の周りを取り囲みます。ちなみに表白(ひょうはく)とは、法会を始める時に読み上げる巻物のことを言います。
ご住職のお話では、厨子の中にはお札も祀られているようです。藤原氏の氏神である春日明神のお札のようで、外山不動院と藤原氏との関係が如実に表れていますね。
煩悩を断ち切る宝剣と衆生を救い上げ、あるいは縛り付けたりもする羂索。
上下に出された牙が、さらなる存在感を解き放ちます。
圧倒的なオーラを感じさせるお不動さんです。
藤原山不動院の年間スケジュールを見てみると、最も賑わうのは6月28日の大祭日だと思われます。
当日の昼には子供会の屋台、夕方になるとコンサートや素麺の接待などがあります。この日の護摩法会は通常の午後2時からではなく、午後7時からの開式となります。
こんなに素晴らしい仏像が桜井市内に眠っていたとは・・・長谷寺や安倍文殊院ばかりではありませんね。観光ガイドブックに掲載されていないお寺にこそ、見るべき仏像や体験があるのではないか。そう感じさせてくれる素敵なお寺でした。
<藤原山不動院の拝観案内>
- 住所 :奈良県桜井市外山878
- アクセス:JR・近鉄桜井駅より奈良交通バス大宇陀・吉隠行き約5分、外山バス停下車すぐ
- 駐車場 :宗像会館駐車場を利用(国道挟んで向かい側)
- 年中行事:1月1日修正会(初護摩厳修) 4月8日花祭り 6月28日大祭(護摩厳修)
- 拝観料 :志納(毎月28日の護摩法会)
- 周辺観光:桜井茶臼山古墳 宗像神社 忍坂街道の神籠石 舒明天皇陵 石位寺