行基菩薩の寺と伝わる喜光寺。
奈良から生駒、大阪方面へ向かう阪奈道路沿いに朱色の南大門がよく映えます。養老5年(721)に行基菩薩によって創建された喜光寺には、厳しい表情の行基菩薩坐像が安置されています。
喜光寺の行基菩薩坐像。
平成26年落慶の行基堂内に安置されています。
行基菩薩坐像といえば、東大寺の行基堂でも拝観したことがあります。行基の墓所・竹林寺の旧像を模した坐像でしたが、喜光寺の行基菩薩坐像も同じく模刻のようです。竹林寺に安置されていた鎌倉時代の坐像の生き写しです。
喜光寺で入寂した日本初の大僧正
行基菩薩は天平21年(749)に、喜光寺にて入寂しています。
近鉄奈良駅前の噴水広場にも行基像が建立されていますが、それだけ奈良には縁の深いお坊様なのです。行基終焉の地が喜光寺であることをご存知の方はそう多くはないでしょう。
喜光寺の行基堂。
まだ真新しいお堂です。扉が開いており、堂内正面に行基菩薩坐像が安置されていました。
南大門の下に掲示されていた境内図。
試みの大仏殿と称される本堂の左奥に行基堂が建っています。その手前には仏足石や石仏群も見られます。本坊、並びに写経道場は本堂裏手に位置しています。こうして見ると、建物の少ないお寺であることが分かります。行基堂も今から3年前に出来たばかりのお堂です。やや寂しい伽藍ではありますが、これからの復興が待たれますね。
喜光寺南大門と本堂。
南大門も平成22年(2010)に落慶を迎えた新しい建物です。いろは写経をはじめとする結縁により、新たに生まれ変わった南大門。その二層目には、結縁のいろは写経が納められているそうです。
そして南大門の両脇には、邪悪なものの侵入を防ぐ仁王像が立っています。
南大門下にいろは写経が案内されていました。
いろは歌を写す「いろは写経」ですが、その納経料は2,000円とのこと。写経の所要時間はおよそ30分で、本坊にて当日申し込みも受付中です。喜光寺復興の起爆剤とも言えるいろは写経ですが、その認知度も徐々に上がってきているようです。
僧行基は天平17年(745)、聖武天皇から日本で最初の大僧正に任ぜられました。
大僧正とは僧官の最高位であり、現在でも各宗派の僧侶の最高位の名称として使われています。大僧正行基の誕生は、民衆からも篤い支持を集めた行基たればこその結実ではないでしょうか。
小さい仏像群が、行基菩薩坐像の左右と背後に並んでいました。
この小さな仏様たちは、参拝者から奉納されたものなのでしょうか。
円光背を背負っています。
それぞれに表情が違うようにも見えます。手彫りでしょうか、どこか人の温もりが感じられる千仏群です。
厳格な表情の行基菩薩がしっかりと前方を見すえます。
東大寺の大仏建立に尽力した行基。その勧進拠点となったのが、ここ喜光寺だとされます。全国を行脚し、民衆の一人一人と触れ合った行基菩薩のご遺徳が偲ばれますね。
黄金に輝くお位牌にも「大僧正行基」の文字が見られます。
師に当たる道昭(どうしょう)菩薩の教えを受け継ぎ、民間伝道や社会福祉に傾注していった行基。一般民衆から菩薩と仰がれ、その人気は不動のものでした。
小ぢんまりした感じの行基堂。
全国を巡遊した行基ですが、最初の日本地図も行基によるものとされます。日本地図イコール江戸時代の伊能忠敬というイメージが強いですが、行基図という日本地図もあるようです。日本史の教科書にも、おそらく掲載されていなかったのではないかと思います。
行基は元々、和泉の人とされます。
今も行基焼(ぎょうきやき)という素焼きの陶器が残されており、行基自身が焼き始めたものと伝わります。色々な業績で後世に語り継がれていますね。道路開拓や橋梁架設などの土木工事にも携わり、広く支持を集めていった高僧の行基。聖武天皇の帰依を受けたことにより、大仏造営にも奔走することになります。
喜光寺は行基最期の地です。
行基菩薩坐像が安置されているのも頷けますね。