桜井市高家の平野古墳を訪れた後、さらに上手に佇む高家春日神社古墳を見学して参りました。
ここは山深い高家集落の一番上の方に位置します。
遥か西に畝傍山や二上山を望む眺望の開けた場所です。明日香村の甘樫丘からも似たような風景が広がりますが、高家春日神社から見る景色の方が絶景です。古墳探訪は古墳好きに任せておいて、風景を楽しむためだけに訪れてもいい場所かもしれません。
高家春日神社境内古墳。
拝殿右手前に横穴式石室が南に開口しています。石室の中には土砂が流入しており、残念ながら中に入るほどの広さはありません。羨道部を少しだけ覗き見ることができる程度です。
6世紀の片袖式横穴式石室
古びた神社境内に古墳がある。
奈良県内ではよく見られる光景です。有名なところでは、高取町佐田の春日神社境内に埋もれていた束明神古墳などが挙げられます。高家春日神社(高田神社)は高家地区の氏神として仰がれています。標高300mの尾根端に位置しており、その境内にぽっかりと口を開ける横穴式石室が姿を現します。
高家春日神社古墳の開口部。
本格的な発掘調査も行われていないようで、被葬者も不明のままです。結構大きな石材が使われており、見晴らしのいい築造場所であることも考慮すれば、そこそこの権力者が葬られていたのではないかと思われます。
高家春日神社古墳の行き方をナビゲート
古墳見学においてまず問題になるのがアクセス方法です。
近くまで行っても案内表示が出ていないことがよくあります。高家集落の最上部にあるこの古墳もご多分に漏れず、場所を案内する標識がどこにも見当たりませんでした。そこで、簡単ではありますがこのブログにてご案内することに致します。
平野古墳から復元夫婦石の前を通り、右手に柿の葉寿司体験道場「天空の郷」を見ながらさらに上手を目指します。
しばらく歩くと、上記のような場所へ出て参ります。左手には川のせせらぎが微かに聞こえてきます。
しばらく進むと、川に小さな橋が架かっていました。
橋の上から撮影。ちなみに高家春日神社へはこの橋を渡りません。そのまま真っ直ぐ登って行くだけでいいのですが、少し寄り道です。
橋を渡ると、道端にお地蔵様が祀られていました。
古道の要所要所に祀られるお地蔵様。その昔は、ここも一つの結界を表していたのでしょうか。
再び緩やかな坂道に戻って歩き出します。
しばらくすると、右手に大きなガレージが見えて参りました。
さらに登って行くと、いよいよ高家春日神社へのアクセスポイントに到着します。
右手に手すりの付いた石段が見えていますが、この石段を上って行けば高家春日神社に辿り着きます。神社の案内板がどこにも出ていませんので注意が必要です。意識していないとそのまま通り過ぎてしまいます。
石段の手前に、記紀・万葉ゆかりの地として大和さくらい100選の案内板がありました。
高家春日神社は桜井市民が独自の目線で選ぶ歴史名所に選ばれているようです。桜井市マスコットキャラクターのひみこちゃんが、両手を広げてウェルカムポーズを取っています。
石段の右手に「きけん」と書かれていますね。
小さな貯水池のようなものが有刺鉄線に囲まれていました。
さぁ、ここを上って行けば高家春日神社古墳に辿り着きます。
石段の幅は非常に狭く、人ひとり通るのがやっとという感じです。
こんな感じです。
この石段を見過ごさないようにさえすれば、あとは迷うことはありません。
カーブを描きながら長い石段が続きます。
なぜかどこかの遊園地に来たかのような錯覚に陥ります(笑) 滑り降りる遊具の横に付設されている階段のような・・・
民家の屋根を眼下に望みます。
それにしても長い石段が続きます。さすがに少し息が切れてきますね(笑)
まだまだ続きます。
神社参拝の際、今までにも長い階段を登った経験があります。吉野の脳天大神や京都石清水八幡宮などはなかなかの難所で知られますが、ふとそんなことを思い起こさせる階段です。もちろん、実際にはそれらよりも階段の段数も少なく大したことはないのですが、心の準備が出来ていませんでした。その分、疲れます(笑)
あともう少しでしょうか。
あの先を右に折れれば境内も見えて来るはずです・・・
やっとたどり着きました。
右手が新たに作られた階段で、左手に鎖の掛かった階段は旧階段のようです。鎖の向こうに何やら石灯籠が見えますね。
談山大明神と刻まれています。
歴史をさかのぼれば、高家地区は談山神社の鎮まる多武峰とも深い関係にあったことが分かります。
談山神社から石舞台古墳まで続くハイキングロードが人気を呼んでいますが、昔から多武峰と飛鳥はつながっていたのです。高家はその多武峰と飛鳥のちょうど中間点辺りに位置します。倉橋、針道、細川、高家を多武峰四郷と呼んでいた時代がありました。高家春日神社の鳥居下に談山大明神の石灯籠があるのも頷けますね。
振り返ると、そこには何やらタンクのような設備が。
この場所は、高家春日神社境内の一段下に当たります。
素晴らしい景色が開けています。
手前に畝傍山、向こうに見える二瘤の山は二上山ですね。二上山のさらに向こう側は大阪です。まさかこんな絶景に出会えるとは思ってもみませんでした。標高の高い高家地区は、北の方向に若草山を捉えることもできます。
大和国中(やまとくんなか)とよく言いますが、四方を山々に囲まれた大和平野の風景は筆舌に尽くしがたいものがあります。
この石段を上がれば、そこは高家春日神社の境内です。
アクセスに少し手こずりはしましたが、訪れて損のない神社であることを保証致します。
境内に残される五輪塔残欠
高家春日神社の境内には、歴史を物語る五輪塔残欠が残されています。
神社の見所の一つとして注目してみることをおすすめ致します。
拝殿には鈴緒がぶら下がり、その向こうに本殿を垣間見ます。
高家春日神社の御祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神の四柱で奈良の春日大社と変わりはありません。
拝殿前に五輪塔の風・空輪と、複弁反花座が横たわります。
何気なく置かれているところがまた、この神社らしさを醸しています。
鳥居入ってすぐ右側には庚申さんがいらっしゃいました。
無造作に置かれている石も見られ、人気(ひとけ)のない境内の雰囲気によく合います。
横穴式石室の右側には金毘羅さんが祀られていました。
よく見ると、古墳の開口部も一段高い場所に築かれています。
金毘羅大権現。
石の表面が少し苔生していました。
歴史の謎を解く鍵はどこにあるのでしょうか。
一説によれば、高家は天武天皇の第三子・舎人皇子が住まわれた場所とも伝えられます。日本の黎明期にその名を残す天武天皇は、妻の持統天皇と共に飛鳥の地に葬られています。その子に当たる舎人皇子が住んでいたのかと思うと、より都の飛鳥とのつながりが感じられます。
石室の中は土砂が流れ込んでいます。
残念ながら石室内探検とまではいかないようです。
開口部前にも何かの残欠が転がっています。
約100基ほどもあるという高家古墳群ですが、都の飛鳥に近い場所であることがその要因になっているのでしょうか。
古墳の横に五輪塔残欠が見られます。
南北朝時代初期・暦応2年(1339)の花崗岩製五輪塔で、その地輪の高さは42.5cmに及びます。伊派の石大工・伊行恒(いのゆきつね)の銘が残されています。
地輪の上には丸い水輪も見られますが、同じ五輪塔の構成物ではないようです。
半壊した五輪塔ではありますが、高家春日神社の歴史の生き証人にも思えてきます。
天井石の向こうに金毘羅大権現が収まる小屋を望みます。
天井石の上には落葉が降り積もり、鄙びた雰囲気に拍車を掛けます。
観光客が訪れるような神社ではありませんが、そういう神社やお寺にこそ魅力があります。
地域の人々に守られてきた歴史があります。
たまにはこういう場所を訪れてみるのも、奈良旅行の醍醐味ではないでしょうか。