奈良県桜井市谷にある艸墓古墳をご案内致します。
古墳見学はよほどお好きな方でない限り、アミューズメントの要素は感じられないかもしれません。近くの安倍文殊院とセットで訪れてみてはいかがでしょうか。安倍文殊院の国宝仏像や境内の花を楽しんだ後に、艸墓古墳や土舞台まで足を伸ばしてみる。大和の歴史を堪能できる観光ルートの出来上がりです。
国指定史跡の艸墓古墳。
読み方の難しい古墳ですよね。艸墓(くさはか)と読みます。見慣れない漢字の「艸」ですが、二本の草の芽が並んで生えた様子が描かれています。訓読みで「くさ」、音読みで「ソウ」ですから、基本的には「草」と変わりがありません。漢字の成り立ちから象形文字のようなのですが、その奇抜な形から顔文字としても使われています。 ( ´艸`)←このような顔文字をどこかでご覧になられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
家形石棺を収める両袖式横穴式石室
艸墓古墳でいつも話題に持ち上がるのが、石棺が先か石室が先かという問題です。
両袖式の石室ですから、羨道から玄室部分へと少し幅が広くなっています。そこに収められているかなり大きな石棺が目を引きます。羨道の幅から考えて、石室が完成した後に石棺を収めるのは困難ではないか?という疑問です。同時進行なのか、はたまた石棺を置いた後に石室が造られたのか、そのプロセスには未だ謎が残ります。
家形石棺の前から開口部を望みます。
石棺の前に何やら盛り土のようなものがありました。どなたかが魔除けの意味も込めて盛られたのでしょうか。開口部の先に民家の屋根が見えていますが、艸墓古墳のある場所は民家の裏庭といった感じの所です。
開口部を真横から見ます。
艸墓古墳には別名があって、カラト古墳とも呼ばれています。
カラト塚は唐櫃(からひつ)のある古墳を意味しています。脚の付いた唐風の櫃を唐櫃(からびつ)と言いますが、がっちりとした感じの家形石棺の形がいかにも唐櫃を想像させることに因みます。実際、家形石棺に脚は見られませんが、長方形の箱に蓋をした形状が唐櫃そのものです。
艸墓古墳の解説パネル。
桜井市教育委員会によって、国指定史跡の艸墓古墳が案内されています。
墳丘は阿部丘陵の小突起部を利用した、北西面・東南面がやや長い、長辺が約27m・短辺が約21mの戴頭長方錘形の方墳である。埋葬施設は南東に開口する両袖の横穴式石室に、竜山石製のくりぬきの家形石棺を安置する。石室の規模は、全長13.16m、玄室幅2.71m、同長さ4.44m、同高さ2.0m。羨道は長さ8.72m、玄門部での幅1.9m、高さ1.5mを測る。側壁・天井石の間隙は漆喰を充填する。石棺の規模と石室の規模から、石棺を安置した後、石室を構築し墳丘を築いたかと考えられる。
艸墓古墳の石室は、石材一石を並列して構成する事を基本にしています。ちまちまと小さな石材を使用することなく、大型石材を使用していることにその特徴があります。被葬者は不明ですが、一説によると安倍晴明が追葬されているのではないかとも伝えられます。
墳丘斜面には玉石が露出している箇所もあり、葺石の可能性も示唆されます。副葬品や出土遺物は不明のままで、そのため築造年代の特定には至っていません。しかしながら、石棺の形式や岩屋山式石室の変形である点などから、7世紀中頃に築造された終末期の方墳と考えられています。
艸墓古墳へのアクセス経路
分かりにくい場所にある艸墓古墳。
安倍文殊院の近くとは言っても、迷われた方も少なからずいらっしゃるのかもしれません。ここに簡単にアクセス道をナビゲート致します。
安倍丘陵上の道標。
左へ400mで土舞台(Site of Tsuchibutai)、真っ直ぐ200mで艸墓古墳(Kusahaka Burial Mound)と案内されています。
安倍文殊院の境内駐車場から緩やかな坂道を辿り、市営住宅や県営住宅のある道に出ます。安倍文殊院から右折して坂道を登り切ると、歴史街道の道標が立っています。道路が赤く塗られているので分かりやすいと思います。
坂道を登り切ったら、今度は下って行きます。
道の向こうに見えている運動場は、奈良情報商業高校の運動場です。この道の左手方向に目的地の艸墓古墳が佇んでいます。
坂道を下ってきて振り返ったところ。
凍結注意の看板が出ていました。冬期は道路が凍り付くこともあるんでしょうね、かなりの急こう配ですからドライバーは注意が必要です。安倍丘陵、恐るべしです。
坂道を下り切った所に艸墓古墳を案内する道標がありました。
この付近は信号のある交差点になっています。行く手が二方向に分かれていますが、今度は右側の坂道を上って行きます。
坂道を上って行くと、民家の手前に緑と赤の道案内が出ていました。
このポイントを右に曲がって艸墓古墳へとアクセスします。
私は5、6年前にも艸墓古墳を訪れていますが、この道案内は当時からありました。行き方で迷う人も多いと聞きますが、この道標を見つけたらもう安心です。
この細い脇道を辿って行きます。
艸墓古墳がいかに民家に近い場所にあるか、お分かり頂けると思います。
塀沿いの脇道を辿って行くと、行く手の左側に開けた場所がありました。
これが艸墓古墳です。
墳丘が緑に覆われ、しっかりとその口を開けていました。なんだかのっしのっしと動き出しそうな迫力があります(笑)ハウルの動く城ではありませんが、古墳でありながらどこか生命力を感じさせる出で立ちです。
開口部分から三段の石段を下り、羨道部を通って玄室へと向かいます。
巨大な石を使い、少ない数の石材で構成されています。巨大な花崗岩の切石が用いられているようです。石室の中に入るのは文殊院西古墳以来かもしれません。さしずめ羨道部分は古代へのタイムトンネルですね。ちょっとした探検気分も味わえ、胸の高鳴りを覚えます。そう言えば、文殊院西古墳も両袖式の横穴式石室だったことを思い出します。
文殊院西古墳ほど整然とした印象は受けませんが、その大きな石に歴史の重みを感じます。
玄室内の家形石棺。
石棺の前にも、何やら石がありますね。
玄室の中は真っ暗です。フラッシュ撮影しておけば良かったかなと後悔しています。ちょっと写真がボケてしまっていますね(笑)
6個の縄掛突起を持つという、竜山石製の刳抜式家型石棺です。今回私は確認できなかったのですが、石棺奥の小口部には盗掘孔があるようです。
安倍文殊院のコスモス。
不動堂を背景に、コスモス迷路のコスモスが見頃を迎えています。
やはり古墳ばかりでは華がありませんよね(笑) お墓巡り以外にも、華やかな場所で癒された空気に包まれるのもいいものです。
ちなみに、こちらが艸墓古墳の墳丘を背後から写したものです。
民家の間にこんもりとした墳丘が見られます。日常生活の中に古墳が溶け込んでいる、いかにも奈良らしい光景です。
箸墓古墳なども今は宮内庁管轄になっていて立ち入ることは出来ませんが、その昔は古墳の真ん中に近隣住民の近道が通っていたと云います。箸墓古墳を突っ切る生活道路があったのです。俄かには信じ難いことですが、どうやら真実のようです。
艸墓古墳は見学自由です。
どなたでも石室の中に入れますし、石棺に近付くこともできます。民家のすぐ傍ですので最低限のマナーを守る必要はありますが、基本的には開放された貴重な古墳です。
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