南淵山を御神体とする神社です。
宇須多伎比売(うすたきひめ)って、あまり聞き慣れない神様ですよね。鎮座地から察するに水神なのでしょうか。奥飛鳥と呼ばれる明日香村稲渕に、皇極天皇が雨乞いをしたと伝わる飛鳥川上坐宇須多伎比売命(あすかかわかみにます うすたきひめのみこと)神社があります。
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の拝殿。
三間社流造の拝殿ですが、特に「遥拝造り」と言うようです。拝殿背後に広がる南淵山を遥拝するのでしょう。正面柱の間に3つの空間があり、三柱が祀られていることをうかがわせます。御祭神は宇須多伎比売の他、神功皇后と応神天皇が名を連ねます。
皇極天皇の雨乞い!原始神道を残すウスタキヒメノミコト神社
稲渕、栢森、入谷、畑の氏神とされます。
鎮座地は稲渕で、奥飛鳥の中でもまだ手前の方です。栢森から入谷、畑を含め、ウスタキヒメは奥飛鳥全体の氏神として仰がれているようです。山をご神体とするあたりは、大神神社(三輪山)にも通ずるところがありますね。原始神道の形を今に残す延喜式内社でした。
県道15号(桜井明日香吉野線)沿いに建つ社号標。
神社名は日本一の長さを誇るようです。背の高い石標からも、その長さが伝わってきますね。
石段も200段近くありました。
石段を登り切るとスロープがあり、その先に鳥居、境内と続きます。神社のすぐ前を県道が通り、その横を飛鳥川が流れています。ウスタキヒメノミコト神社の下流には、万葉集にも詠われた飛鳥川の飛び石があります。ここからさらに上流へ遡ると、栢森の女綱、芋峠へと続きます。
社号標の左に草木塔が建ちます。
伐採樹木に対する感謝や供養を表すのでしょう。『天武紀』によると南渕の細川山の伐木を禁じ、山林の保護に務めた記録が残っています。古代より潤沢な水源を保つために守られていたようです。
宇須多伎(うすたき)は「臼瀧(うすたき)」ではないかとする説もあります。
水の流れが渦のようになる場所を“臼瀧”と言うようです。社前を流れ下る飛鳥川を見ていると、何となく分かるような気もします。臼が女性なら、杵は男性を象徴します。餅は杵で搗き、臼で受け止めます。臼は受動的で杵は能動的です。吸い込まれるように渦を巻く臼瀧は、なるほど“受け手側”とも言えるでしょう。
こちらは社務所かもしれません。
訪問時はどなたもいらっしゃいませんでした。
手水舎。
覆い屋はまだ真新しいですね。
石段を登り、振り返ります。
かなりの傾斜ですね。よそ見をしないで、足元を確認しながら登りましょう。
石段の次は緩やかなスロープです。
坂道の両脇が “苔” で黄緑色でした。
左へ折り返すと、その先に鳥居が見えてきます。
鳥居の右上に見えている建物が、ウスタキヒメノミコト神社の拝殿です。
境内に入り、崖の下を覗き見ます。
半壊寸前の小屋がかろうじて建っていました。
拝殿の両脇には境内社もあります。
仁徳天皇社や武内社、明治天皇社などが祀られているようです。
境内にたくさん落ちていた木の実。
花梨の木が植わっているようで、ひょっとすると黄色くなる前の緑実でしょうか。
壇上の拝殿。
亀甲形の石垣が組まれています。
稲渕に祀られる宇須多伎比売(うすたきひめ)は、飛鳥坐神社の裔神とも伝わります。裔神(えだがみ;枝神)とは、つまり末社の祭神、御子神ということですね。栢森の賀夜奈留美(かやなるみ)も飛鳥坐神社との関係が語られ、飛鳥古社同士のつながりを感じます。
水を打ったように静寂に包まれていました。
飛鳥寺に近い飛鳥坐神社に比べれば、観光客の集う場所ではありません。
ただただ、ひっそりとしています。
ウスタキヒメノミコト神社は境内社として仁徳天皇を祀りますが、仁徳天皇は応神天皇の息子に当たります。
日本一の規模を誇る大山古墳に葬られる仁徳天皇。磐之媛との間に設けた子供が、それぞれ履中、反正(はんぜい)、允恭と立て続けに天皇に即位しています。
境内社は簡易な見世棚造りですね。
流造りの拝殿。
妻に下がるのは猪目懸魚です。
菊の御紋も見えます。神功皇后と応神天皇を御祭神とするだけに、皇族の象徴も掲げられているのでしょう。
石燈籠に刻む「栢森若連中」。
若連中(わかれんじゅう)とは、村単位で形成される青年男子のグループのことです。
拝殿の後方は、透塀で仕切られていました。
南淵山との結界を表すのでしょう。
背後に廻ることも出来ました。
ここは立ち入らない方がいいと判断し、元の場所に引き返します。
なぜか火袋の無い石燈籠ですね。
笠が四方に反り返り、鮮やかなグリーンをまといます。
「畑村 入谷村」と刻みます。
今も大字畑には、小字の「ウスタケ」が残っているようです。おそらく宇須多伎比売(ウスタキヒメ)とのつながりでしょう。畑地区は私にとって未踏の地です。ちょうど石舞台古墳から談山神社へ向かう途中、右手へ上がって行く道があります。手前が畑、その向こうが尾曽へのアクセスルートです。
入谷は栢森からさらに上手ですね。芋峠の入口手前を左へ登って行きます。ウスタキヒメノミコト神社の境内社・仁徳天皇社は、入谷鎮座の大仁保神社(おおにほ)を遷座しているようです。
案内板は無く、どれが仁徳天皇社なのか判然としませんでした。
拝殿左の石瑞垣は崩壊し、無残な姿を晒していました。ゲリラ豪雨や台風など、昨今の異常気象は山奥の神社には痛手だと思われます。
小さいながらも軒を支える組物は立派です。
蟇股も手が込んでいますね、動きを感じさせる波頭でしょうか。
結界が倒れていました。
拝殿と向き合う格好の建物。
固く閉ざされ、中の様子は窺い知ることができません。祭事などの際、詰所に使われているのかもしれませんね。
『皇極紀』に伝わる雨乞い神事。
皇極天皇(後に重祚、斉明天皇として即位)が、南渕の川上で四方を拝し雨乞い祈願したようです。明治期までは雨乞いの「なもで踊り」も行われたと言います。
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社。
山を奉る原始信仰の形を継承していますが、今は御神体として鏡も納められているようです。