山添村中峯山(ちゅうむざん)にある神波多神社。
平安時代の延喜式神名帳にも名を残す古社で、疫神の素戔嗚尊(スサノオノミコト;牛頭天王)を祀ります。悪いものが入って来ないように、村の境目で食い止める。そんな願いが感じられる神社でした。
神波多神社の盃状穴(はいじょうけつ)。
盃状穴とは、文字通り盃状に窪んだ穴のことを指します。東大寺転害門の盃状穴がよく知られ、その由来に関しては様々な意見が交わされています。謎の多い盃状穴ですが、山添村の神社にも存在していました。
疫病除けを祈願する象徴?牛玉宝印、牛の額に生じる玉
様々な憶測を呼ぶ盃状穴。
女性の象徴だとか、子孫繁栄、子宝祈願、豊穣祈願、蘇生を願う印だとも言います。何が本当か分からないのですが、神波多神社に祀られる牛頭天王に照らせば、疫病除けの願いが透けて見えます。
神波多神社の境内。
正面に見える建物は、かつての神宮寺と思しき善明院です。
神波多神社の由緒は、そのほとんどが消失しています。
織田信長の伊賀攻め(天正伊賀の乱)に遭い、重要な記録が残っていないのです。しかしながら、畿内における境界(ボーダーライン)10か所に祀った疫神の内の一社であることに間違いは無いでしょう。
拝殿に掲げられる「牛頭天王」の扁額。
流行り病を避けるため、集落の入口に勧請縄を張り、地蔵石仏を祀る。邪悪なものの侵入を防ぐため、昔の人は色々気を揉んだようです。境界に牛頭天王を祀ったのも、同じような意味合いだと思います。神仏分離令により、神波多神社の現在の祭神はスサノオノミコトです。スサノオと牛頭天王は同一視されますから、今も「波多の天王」で通っています。
神波多神社の石段。
盃状穴は石段や手水鉢に見られました。
東大寺や手向山八幡宮には、牛玉宝印(ごおうほういん)という守り札があります。二月堂練行衆が持つ牛玉櫃(ごおうびつ)も “牛の玉” と書きますよね。そもそも牛玉とは何なのか?
少し調べてみると、面白いことが分かります。
「牛玉(ぎゅうぎょく)」は牛の額に生じる玉状の塊で、寺院の宝物とされる。へぇ~そうなんだ、という感じ(笑) または牛の腹中、レバーにできる牛黄(ごおう)という見方もあります。漢方薬の牛黄ですね。
牛の胆嚢に生じる黄褐色の胆石を牛黄と言います。本来は病的な結石だと思いますが、牛千頭に一頭ぐらいしか見つけることが出来ない代物です。その希少性からか、一切の病魔を除く霊物とされているようです。
思い起こせば、京都三室戸寺の「願い玉」は狛牛の口の中にありました。額の中に仕込まれていればドンピシャだったのにと、とりとめもない事が頭をよぎります。
石段の上から両部鳥居を見下ろします。
神波多神社の前を国道25号が通っています。
毎年10月の第四土曜日に天王祭が催され、神波多神社から御旅所「牛の宮」までお渡りがあるようです。牛の宮の手水舎横に、牛の像が座しています。やはり牛とは縁の深い神社なんですね。
拝殿前の狛犬。
盃状穴と牛玉は、何か関係があるのかもしれません。
私が住まう三輪の地でも、盃状穴らしきものを発見しました。三輪山麓に鎮座する若宮社の石段です。真贋は定かではありませんが、三輪山麓にはスサノオが祀られています。若宮社にはかつて“聖林寺の十一面観音”が祀られていたことも気になります。明治の神仏分離により、若宮社(大御輪寺)を離れた経緯があります。
明治期以降には見られなくなった盃状穴。
盃状穴の歴史を辿ると、明治初期に何かのヒントがあるような気がします。
神波多神社の本殿を東側から見ます。
本殿は五間社流造で、柱間(はしらま)が五つあるようです。江戸時代初期の桧皮葺で、奈良県指定有形文化財となっています。