「乙訓地方の石舞台古墳」と言われる今里大塚古墳。
住所は長岡京市天神5丁目で、長岡天満宮のすぐ北側です。入り組んだ住宅街の中にあり、見つけるのに少し時間が掛かりました。最後はご近所の方にお伺いして辿り着きました。
今里大塚古墳。
現存している墳形は円墳のようですが、前方後円墳の可能性も残ります。埋葬施設は横穴式石室で、二上山産の凝灰岩を使った組合式家形石棺が納められていました。
埋蔵文化財調査センターから今里大塚古墳公園へアクセス
今里大塚古墳から南西方向にある埋蔵文化財調査センター。
この日私は、周辺の古墳事情を教えて頂こうと立ち寄りました。係りの方から色々お伺いし、長岡京市文化財マップを片手に出発です。土地勘もあまり無かったのですが、頂いた文化財マップが役に立ちました。
アガパンサスの向こうに今里大塚古墳が見えます。
今里大塚は古墳公園として整備され、墳丘の周りを歩くことができます。残念ながら墳丘上に登ることは出来ませんが、その周囲を巡りながら古墳時代に想いを馳せます。
手前には駐車場もありました。
東屋の休憩所もあり、庶民の憩いの場として活用されているようです。
「今里大塚古墳公園」と刻みます。
奈良県内の横穴式石室に入り慣れていることもあり、少し期待はしていたのですが、どうやら石室は埋め戻されているようです。
今里大塚古墳の解説文。
天神5丁目(旧大字今里小字大塚)
今里大塚古墳は7世紀前半に造られた、古墳時代の乙訓地方における最後の大型古墳で、被葬者は絶大な権力をもち、京都盆地北部を支配した豪族と考えられ、首長墓として著名なものです。
現存する墳丘は直径約45m、高さ6.5mの円墳ですが、前方後円墳の可能性も考えられています。墳丘の大半は盛土で造られ、周囲には盾形状をした濠を巡らしています。
古墳中央部の横穴式石室は棺を納める施設で、南東部に入口があります。通路(羨道)と棺を安置した部屋(玄室)に分かれ、床面には石組みの排水溝を設け、その上に石を敷き詰め、壁面や天井は巨石で囲まれています。
その構造は奈良県明日香村の石舞台古墳と同じで、乙訓地方の石舞台古墳といえます。また、玄室の規模は長さ5.5m以上、幅3m、高さ3.6mあり、京都府下でも京都市の蛇塚古墳、双ヶ岡1号墳に次ぐ最大級の古墳です。
棺は羨道で部材の一部が発見されましたが、組合せ式の家形石棺で、奈良県の二上山産の凝灰岩で造られたものです。
この古墳は長岡京造営の石材入手のために巨石や石棺の一部を持ち去ったことが発掘調査により明らかにされました。井ノ内稲荷塚古墳と同様に長岡京の造営が古墳に及ぼした影響を知る上で興味深く、貴重な資料でもあります。
今里大塚古墳のすぐ南に、長岡天満宮があります。
徒歩10分も掛からないでしょう。住宅街の中にある今里大塚古墳から長岡中学校の前を通り、長岡市中央公民館を過ぎて交差点に出ます。そのすぐ角に八条ヶ池が広がっていました。
発掘当時の写真です。
横穴式石室が露わになっていますね。これだけの巨石が運搬されたわけですから、被葬者は相応の権力者であったと思われます。
航空写真も掲示されていました。
盾形状の濠が巡っていたと言います。
長岡天満宮周辺は今里大塚の他にも、幾つかの古墳が見られます。埋蔵文化財調査センターの方に「長法寺七ツ塚古墳群」も薦められたのですが、敢え無く時間オーバーで見送ることになりました。
少し傾斜が付いていますね。
墳丘が青々としているのは、この季節ならではなのかもしれません。
真冬に訪れれば、もう少し色褪せていることでしょう。
墳丘の周りで子供たちが遊んでいました。
庶民の生活に近い古墳です。
山奥の辺鄙な場所にあることが多い古墳ですが、今里大塚古墳は親しみやすい印象です。
こうして休憩しながら古墳を愛でます。
ご近所の方々にとってはありふれた光景なのでしょう。
細い道を通って帰路に就きます。
石材の巨大さ故か、よく引き合いに出される明日香村の石舞台古墳。京都にも石舞台古墳に例えられる大型古墳がありました。ひょんなことから出会った新たな発見です。