明日香村奥山から奈良県立万葉文化館へ上って行く坂道の途中に、左手へ伸びるY字路があります。
八釣マキト古墳へ続く道なのですが、そのまま道なりに進んで行くと、程なく右手に静かな社叢が見えて参ります。神社の名前は弘計皇子(をけのみこ)神社、第23代顕宗天皇が祀られるお社です。
弘計皇子神社本殿。
第21代雄略天皇の御子であった22代清寧天皇には子供が有りませんでした。
天皇の血筋を継ぐ者を探し求めていたところ、雄略天皇が暗殺した市之辺忍歯王(イチノヘノオシハノミコ)の妹・飯豊王(イイドヨノミコ)が居ることが分かります。飯豊王はしばらくの間、葛城の忍海にある高木角刺の宮(たかぎのつのさしのみや)に於いて天皇の代理で天下を治めていました。
近飛鳥八釣宮の伝承地
奈良県高市郡明日香村八釣41番地に鎮座する弘計皇子神社は、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)の伝承地とされます。
角刺の宮で飯豊天皇が執政を行っていた時、山部連小盾(やまべのむらじおだて)という人物が播磨の国の長官に遣わされます。その土地の住人の新築祝いに同席することになったオダテ。宴の行われていた竈の傍に、火焚き役の少年が二人いました。
弘計皇子神社の鳥居。
火焚き役の少年二人にも宴の舞いを舞わそうということになりましたが、兄弟二人はお互いに譲り合います。譲り合いの末、兄が先に舞って、次いで弟が舞いながら歌を歌いました。「私たちは市之辺忍歯王(イチノヘノオシハノミコ)の子供です」という内容の歌に驚いた小盾(オダテ)は、この二人こそが雄略天皇の追手から身を隠していた意祁命(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)であることを悟ります。
この知らせを聞いて喜んだ飯豊王は、二人を角刺の宮に呼び寄せることになりました。
八釣マキト古墳へ続くY字路。
この道を左に取って進んで行くと、程なく右手に弘計皇子(をけのみこ)神社の社叢が見えて参ります。
弘計皇子神社へ続く道は、やや心細い感じのする道路でした。
右手には川のせせらぎが聞こえてきます。
右手に記念碑のようなものが見えてきました。
ここを右に入ると、弘計皇子神社の小さな境内です。
本殿の前にある拝殿。
兄弟のどちらが天皇に即位するかでも譲り合いが起こりましたが、弟の歌によって復帰が叶ったこともあり、まずは弟のヲケノミコが第23代顕宗(けんぞう)天皇として即位します。近飛鳥の宮で天下を治めたと伝えられる天皇です。ちなみに、弟のヲケノミコ亡き後は兄のオケノミコが第24代仁賢天皇として即位しています。
菜の花の向こうに、鎌足産湯の井戸を背後に控える大原神社を望みます。
弘計皇子神社の周辺には、飛鳥坐神社、大伴夫人の墓、鎌足産湯の井戸などの名所が佇みます。
第24代仁賢(にんけん)天皇から数えて十代、第33代推古天皇までの天皇に関しては系譜しか伝えられていません。欠史十代と呼ばれる所以であり、推古天皇を最後に、神代から続く古事記の物語は終止符を打ちます。そういう意味では、古事記に語られる最後の天皇こそが第23代顕宗天皇ということになります。
弘計皇子神社の本殿。
弟の袁祁王(をけのみこ)が祀られています。
「奉納 弘計皇子神社」と記されています。
難読地名の多い奈良県内ですが、神社の名前の読み方にも頭を悩ませますね(笑) 如何なる漢字博士でも、弘計皇子(をけのみこ)とはなかなか読めないのではないでしょうか。
最後に宴の席で歌われたヲケノミコの歌をご紹介しておきます。
「天の下(あめのした)を治め賜へる伊耶本和気(いざほわけ) 天皇(すめらみこと)の御子(みこ)市辺之(いちのへの)押歯王(おしはのみこ)の奴末(やっこすゑ)」
周辺は蝋梅の名所にもなっていて、早春の香りが立ち込める鄙びたエリアです。