斉明天皇陵に合葬される間人皇女(はしひとのひめみこ)。
古代の血縁関係を探ると、そうそうたる面々が並びます。女傑と伝わる斉明天皇の隣りに埋葬されている人物です。日本史の教科書では馴染みの薄い皇女ですが、その血のつながりには英雄たちが次々と連なります。
2022年度の春に復元整備された牽牛子塚古墳周辺。墳丘を覆う二上山産の凝灰岩切石が印象的です。それにしても、すっかり様変わりしましたね。
父は舒明天皇、母が斉明天皇!兄は天智天皇で、弟が天武天皇
牽牛子塚古墳は近鉄飛鳥駅から1kmほど西側にあります。
越智岡(おちのおか)と呼ばれる丘陵上にあり、飛鳥の地を見下ろす高台に位置しています。概ね古墳は高所に築かれるものですが、“真の斉明天皇陵”と言われる牽牛子塚古墳も例外ではありません。
模型広場から八角墳を見上げます。
牽牛子塚古墳の手前にある越塚御門古墳も模型で再現されていました。
越塚御門古墳の被葬者は大田皇女(おおたのひめみこ)と言われます。天智天皇の皇女に当たり、同母妹に持統天皇、同母弟に建皇子がいます。建皇子と言えば、大淀町の保久良古墳を思い出します。8歳で亡くなった建皇子を、祖母である斉明天皇は痛く可愛がったと言います。
史跡に指定される牽牛子塚古墳・越塚御門古墳。
墳丘へ上がっていく階段も新たに取り付けられていました。
牽牛子塚古墳の横口式石槨。
石槨の真ん中に仕切りが見られます。二つに分けられた空間に、斉明天皇とその娘・間人皇女が葬られていたのでしょうか。
間人皇女の父親は舒明天皇です。桜井市の舒明天皇陵も八角墳でしたね。
両親共に天皇なら、その兄弟もそうそうたる面々です。間人皇女の兄が天智天皇で、弟は天武天皇だというのです!同母兄が天智天皇で、同母弟が天武天皇・・・古代史を賑わせたご両人にはさまれる格好で生を享けています。これは驚きですね。まぁ、古代史にはよくあることなのかもしれませんが。
案内板を引用致します。
牽牛子塚古墳は7世紀後半に造られた古墳で、丘陵の頂部に位置しています。墳丘は三段築成の八角墳で、発掘調査の成果などから対辺長約22mに復元することができます。現在の墳丘は、最下段部分を築造当時の大きさに復元しています。内部には二上山産凝灰岩の巨石を刳り抜いた埋葬施設(墓室)があり、石英安山岩の切石が取り囲んでいます。墓室は二室あり、それぞれ奥行き2.08m、幅1.18~1.2m、高さ1.18~1.2mの大きさで、鎌倉時代に盗掘に遭いましたが、七宝飾金具、玉類の副葬品の一部や夾紵棺片、人骨などが出土しています。
三段築成の墳丘が復元されています。
墓室に向けて階段が設けられ、間近で見学することができます。但し、横口式石槨の前には木の柵があります。復元整備前には下まで降りて行けましたが、現在では予約が必要なようです。
模型広場から牽牛子塚古墳を見上げます。
八角墳の左後方には、さらに一段高い展望広場が設けられていました。
模型広場(Model Square)の道案内。
模型広場の下手にはアサガオの丘が用意されています。こらから朝顔の咲く時期になれば、県内のニュース等で採り上げられることでしょう。
八角墳のやや南東にある越塚御門古墳。
越塚御門古墳の墳形は方墳のようです。「飛鳥石」の刳り抜き式横口式石槨が残されていました。
斉明天皇陵に関しては、高取町車木の車木ケンノウ古墳が比定されています。
被葬者が100%明らかにならない“古墳あるある”ですね。長きにわたり、様々な憶測を呼びながら現在に至っています。あぁでもない、こうでもないと言いながら古代史ロマンに浸るのがいいのでしょう。