神武伝承の八咫烏(やたがらす)神社をご案内します。
奈良県宇陀市榛原区高塚に鎮座する八咫烏神社。日本サッカー界にとっても縁の深い神社です。
境内に置かれている八咫烏像。
サッカーボールを頭の上に乗せてヘディングしています!バランスを取っているだけかもしれませんが(^-^; 日本サッカー協会のシンボルマーク「八咫烏」。平成14年に日本サッカー協会が必勝祈願を行った際、崇敬者より寄贈されたモニュメントです。
ヤタガラスに姿を変えた賀茂建角身命
八咫烏神社の御祭神は賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)です。
京都下鴨神社の御祭神でもあり、神武東征の際に八咫烏に変身して大和に導いた神様とされます。
八咫烏神社拝殿と紫陽花。
境内の片隅に紫陽花が咲いていました。
拝殿の奥に石段が見えます。階段を登って行くと、本殿が祀られていました。
八咫烏神社本殿。
境内の高所に鎮座します。鮮やかな朱色の春日造社殿ですね。
八咫烏神社の由緒。
江戸時代(文政年間・1818~1830)に、石神殿から春日造の社殿に変わったことが記されます。どうやら中国の”陽鳥”と考えられていた八咫烏が反映されているようです。
愛くるしい目をしています。
広い支持を集める、八咫烏神社の人気者です。
真正面から仰ぎます。
両脇には狛犬が陣取っています。
日向の国を出て、遥か大和を目指す神武東征の物語。
旅に苦難は付き物です。神武天皇が大和入りする際、足止めを喰らうことになりました。
熊野の山中で停滞する御一行を大和へと道案内した勝利の神様。それが八咫烏(やたがらす)に化身した、御祭神・建角身命(たけつぬみのみこと;たけつのみのみこと)であったと伝わります。
勝利へ導いた神様ということで、スポーツの必勝祈願や安全祈願の神社として名を馳せるようになりました。
やたがらすの名前をそのままに冠した地酒もあります。
そう言えば、近鉄岡寺駅の近くに八咫烏大明神という社がありました。八咫烏神社とも何か関係があるのでしょうか。
それにしても、愛嬌たっぷりの八咫烏像ですね。
八咫烏とは、”八アタ烏”のことを意味します。
アタとは昔の尺度の単位で、親指と中指を広げた長さのことを指します。つまり、それぐらいの大きさのカラスということです。
カラスの足元にはお賽銭が。
八咫烏の導きで吉野・宇陀へと至った神武御一行は、宇陀のオトウカシや久米部の協力を得て登美毘古を滅ぼし、国中を平定して即位したと伝わります。
八咫烏神社二の鳥居。
深い緑の杜を背にしています。
八咫烏神社の社務所。
屋根の妻には懸魚が下がっています。とても綺麗な社務所ですね。
八咫烏神社の鳥居下にあった道標。
北方向の近鉄榛原駅まで3.5㎞の地点にあるようです。南の方角には伊那佐文化センターと記されます。
禊川に架かる朱色橋の向こうに八咫烏神社が鎮座します。
駐車場は神社の手前右側にあるんですが、道路に面した一の鳥居と写真の朱色の橋を車で通過する必要があります。鳥居の下を車でくぐり抜けるわけですが、対向できないほどの狭い道ですので、対向車がある場合は注意が必要ですね。
本殿前。
石燈籠が並びます。
この辺りは水を打ったように静かです。翼のように伸びる塀、そこに見える黒い三角形は鋸歯文でしょうか。結界を匂わせます。
八咫烏神社の創建は慶雲2年(705)。
南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰によって栄えた時期もありましたが、その後は振るわず、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態が続いたそうです。
ちょこんとボールを乗せます。
既に奈良朝以前には創祀勅祭されており、『続日本紀』には
八咫烏の社を、大倭国宇太郡に置きて之を祭らしむ
と記されています。
江戸時代中期まで繁栄の途絶えた八咫烏神社。
その窮状を救ったのが、京都の下鴨神社だったと伝えられます。
江戸時代の文政年間に下鴨神社の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力によって見事再興を果たしました。八咫烏神社の社紋は、下鴨神社と同じ「葵」をかたどった紋になっています。
賀茂氏は八咫烏の子孫だとも伝えられます。
歴史を紐解けば、不思議なつながりが見えてくるものです。
八咫烏神社へのアクセスは、近鉄榛原駅南口改札より奈良交通バス菟田野行き「高塚」バス停下車、所要時間は10分足らずとなっています。