宇陀市榛原萩原(はぎはら)にある宋祐寺を訪れて参りました。
聖徳太子開基と伝わる融通念仏宗のお寺です。
お寺のある場所は近鉄榛原駅にも程近く、国道165号線沿いに位置します。宋祐寺門前の旧街道沿いには金比羅さんや椋下(むくもと)神社も鎮座しており、歴史散策にはおすすめのコースとなっています。
手水処から望む本堂。
重要文化財の木造多聞天立像が安置されています。本堂天井には、釈迦族の末裔という仏画師作の百八観音天井絵が嵌め込まれています。その他にも、地蔵菩薩立像、薬師如来像、鎌倉時代の絹本著色仏涅槃図三幅などが収蔵されています。
聖徳太子の東夷降伏から毘沙門天を勧請
宋祐寺の歴史は古く、聖徳太子の生きた時代に遡ります。
時は敏達天皇10年(581)、蝦夷数万の大軍が飛鳥に襲来したそうです。その際、まだ8歳の聖徳太子は墨坂の地に一時避難され、無事を得たと伝えられます。そこで、同年8月に奏請勅許を得て、推古天皇16年(608)に毘沙門天を勧請するに至ります。つまり、聖徳太子が「東夷降伏」の功を成就し、毘沙門天を勧請して開基を許されたお寺と伝わります。
”聖徳太子に毘沙門天” という流れは、信貴山にも通じるものがありますね。
「融通榛原本山宋祐寺」の寺号標。
その側面には「聖徳皇太子殺生戒御舊跡」と刻まれています。この刻字からも、太子が仏の五心の一つである不殺生を説いていたことがうかがえます。宗派は融通念仏宗で、天徳年間(957~960)に融通念仏の祖良忍が当地に降り立ち、融通念仏の勧進をしたと伝わります。
宋祐寺の軒丸瓦。
おそらく寺紋が刻まれているのでしょう。
山門正面に堂々とした本堂が出迎えてくれます。
宋祐寺の歴史には、織田信長も深く関係しているようです。
長きに亘り寺勢が衰退していた頃、永禄2年(1559)に織田信長の家臣服部宗祐が入寺します。彼は私財をなげうって堂坊を再建し、中興の上人とされました。また、その際に信長も若干の黄金を寄附し、彼の命によって宗祐寺と号したそうです。
信長の家臣の名前が、そのまま寺名になっていたのですね。
亀甲紋を描く甲羅を背に乗せます。
本堂の右手には寺務所や寺宝館のような建物も見えます。
重要文化財の絹本着色仏涅槃図ですが、毎年釈迦入滅の2月15日に公開されているようです。