大和の枕詞。
磯城嶋・敷島(しきしま)は大和の枕詞であり、日本国の別称です。日本を表す名称に「秋津島」がありますが、それとよく似たものですね。
初瀬川の南岸に、第29代欽明天皇のお宮跡がありました。
欽明天皇磯城嶋金刺宮址(しきしまかなさしのみやあと)。
欽明天皇と言えば、飛鳥の猿石近くに欽明天皇陵があったことを思い出します。遺跡名は平田梅山古墳で、全長140mの前方後円墳です。陵は明日香村で、お宮を営んでいたのは桜井市内なんですね。
百済より仏教公伝!任那滅亡の朝鮮半島
欽明天皇の時代の特筆すべき出来事は「仏教公伝」です。
西暦538年、朝鮮半島の百済より仏教が伝えられました。神を信奉してきた我が国日本に、舶来の仏教が入ってきたのです。仏教受容をめぐっては、物部氏と蘇我氏の争いへと発展していきます。その後、仏教を伝えた百済は新羅によって滅ぼされ、朝鮮半島の足場になっていた任那も新羅に敗北します。
初夏の訪問だったためか、草木が繁茂していました。
磯城嶋金刺宮跡は初瀬川(大和川)の南岸で、中和幹線のすぐ北側に当たります。
向こう岸の北岸には、金屋河川敷公園があります。
遣隋使一行を出迎えたという錺馬(かざりうま)が草を食んでいました。
磯城邑伝承地碑。
磯城(しき)は古代郡名であり、邑名でもありました。石で堅固に守った城のことでしょう。第10代崇神天皇の宮跡も、磯城瑞籬宮と称します。
欽明天皇の別名を、志帰嶋天皇(しきしまのすめらみこと)と言うようです。
シキシマは様々な漢字に当てられます。かの万葉集には、枕詞として「磯城島のやまとの国」「式島のやまとの国」「志貫島のやまとの国」「之奇志麻乃夜末等」などと出ています。
天理教敷島大教会。
三輪山麓にある天理教の一大拠点です。
かなり巨大な建物で、インパクトは絶大です。まさしく「敷島のやまとの国」を彷彿とさせる雰囲気です。
草藤(くさふじ)と三輪山。
大和川北岸に、紫色の花を咲かせる群生が見られました。クサフジかナヨクサフジなのか、残念ながらその区別はつきませんが、三輪山を背景に無数の花を付けています。群生場所は県営住宅金屋団地のすぐ傍です。
『欽明記』には師木島大宮と記されます。
南方に城島(しきしま)小学校がありますが、城島は磯城島の二字化でしょう。
かつて「地名の好字二字化」は盛んに行われたので間違いないと思います。唐文化圏の朝鮮諸国に倣った表記法で、奈良時代初期の713年には好字令も発せられています。
欽明天皇磯城嶋金刺宮(推定地)
初瀬川と粟原川に挟まれた地域は、かつて磯城嶋と呼ばれ、古くは室町時代に法隆寺僧訓海が著した『太子伝玉林抄』、元文元年(1763)の並河永らによる『大和志』、大正3年の大神神社宮司斎藤美澄による『大和志料』により、この地域に金刺宮があったものと推定されている。
『太子伝玉林抄』によると、室町時代には金刺宮の内裏跡は、現在地より東北約百メートルにある字垣ノ内一帯にあったとの伝承が、既に存在していたようだ。
金刺宮の内裏が東北約100mにあったと記されていますね。
大和川の北岸ということでしょうか。
磯城嶋金刺宮伝承地の案内板。
磯城嶋金刺宮は、第29代欽明天皇が営んだ宮です。日本書紀には、欽明天皇の時、百済の聖明王から仏像や経典などが献じられ、わが国に仏教がはじめて公的に伝えられたことが記されています。
この頃、仏教の受け入れについては賛否があったので、天皇は試しに大臣の蘇我稲目に仏像を授けて礼拝させました。※
また、記紀によると、このころ大和朝廷の勢力は任那(みまな)を拠点に朝鮮半島へも広がっていたとされています。しかし、友好関係にあった百済の聖明王が新羅との戦で亡くなると、新羅により任那も滅ぼされてしまいました。
欽明天皇は、任那の復興を期して新羅と戦いましたが、果たせなかったとされています。
※仏教公伝の年については、日本書紀の記述によると西暦552年になりますが『上宮聖徳法王帝説記』などによると西暦538年になり、後者が有力な説とされています。
仏教公伝や任那の滅亡が記されます。
仏教公伝の年代ですが、どうやら西暦538年説が有力なようです。百済から献じられた仏像を、まずは蘇我稲目に拝ませたと書かれており、その辺りの経緯は豊浦寺跡(明日香村)へ行けばよく分かります。
ご住職のご厚意で、アルカイックスマイルの観音菩薩を拝ませて頂きました。
欽明天皇が稲目に祀らせた仏像だとすれば、私にとってはかなりセンセーショナルな出来事でした。
柿本人麻呂の歌碑。
しきしまの やまとのくには ことだまの さきはふくにぞ まさきくありこそ
歌の意味はこんな感じです。
日本の国は、言霊が幸いをもたらす国です。どうか私が「ご無事でいて下さい」と言葉で申し上げることによって、どうぞ無事でいて下さい。これは海路の旅に出る人への餞(はなむけ)の歌でしょう。
仏教公伝の地碑。
初瀬川の南に、磯城金刺宮がある。仏教が正式に渡来したのはこの都である。日本仏教発祥のちである。
桜井市出身の評論家・保田輿重郎の名が刻まれています。
磯城島金刺宮跡から三輪山麓を望みます。
北岸の一番向こうに、桜井市立学校給食センターが見えています。
上流の方に向き直ります。
三輪山の稜線が途切れるポイントですね。大和川はこのまま蛇行しながら、初瀬ダム、まほろば湖の方へと上がっていきます。
磯城嶋金刺宮跡がある磯城嶋公園の一角に、万葉歌碑が建っていました。
泊瀬川(初瀬川)が詠われているようです。
泊瀬川速み早瀬をむすびあげて あかずや妹(いも)ととひし公(きみ)はも
泊瀬川の清流が速いので、私に代わって早瀬の水を手に掬い上げ「まだ飲み飽きないか、もっと欲しいか」と優しく尋ねて下さったあの方は、ああ(今はどうしておられるだろう)。
東屋もありました。
ちょっとした休憩所ですね。
大和川北岸の馬井出橋近くには、仏教伝来之地碑が建っています。仏教伝来にまつわる記念碑が、ここ南岸にもあることを初めて知りました。この後、南岸沿いを歩きながら馬井出橋を渡り、金屋河川敷公園へと足を延ばしました。