三輪山が綺麗に映える神社です。
大神神社摂社の「神御前(かみのごぜん)神社」は茅原の集落内にあります。その名の通り、神体山・三輪山の御前に位置し、神様に守られた瑞垣郷の中にひっそりと鎮座していました。
神御前神社の社殿と三輪山。
注連縄には紙垂が下がり、聖なる結界が張られます。社殿両側は塀で仕切られ、背後は生垣になっていました。大神神社末社の富士・厳島神社にも程近く、道を挟んで斜め前に位置しています。小さな境内には凛とした空気が張り詰め、その立地の良さをうかがわせます。
崇神天皇占いの地「神浅茅原」に鎮座する神御前神社
崇神天皇の御代、国の乱れを憂慮した天皇は亀卜(きぼく)によって災いの原因を知ろうとしたそうです。
亀卜とは亀の甲羅を焼いて、そのヒビの入り具合によって占う方法です。その卜占(ぼくせん)の地が「神浅茅原」でした。神御前神社の鎮座地は、まさしくその神浅茅原の中ではないかと伝わります。
茅原集落へ向かう途中、椿と思しき花が咲いていました。
椿と山茶花の見分けは難しいとされますが、地面にぼとんと花が落ちていたところを見ると、やはり椿ではないかと思われます。
大神神社摂社神御前神社の鳥居。
神御前神社の御祭神は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひ ももそひめのみこと)です。
あまりに長い名前なので、地元では「ももそひめ」と呼び習わしています。モモソヒメは第7代孝霊天皇の皇女とされる人物です。大物主との神婚譚が伝承され、宮内庁は箸墓古墳の被葬者としています。
例祭日は10月5日のようです。
神浅茅原は今も広々としており、長閑な田園風景が広がります。遥か古代には神々が集った場所とされますが、納得させるだけの土地のエネルギーが感じられます。
箸墓は卑弥呼の墓との説が有力ですが、モモソヒメの名も三輪山麓ではよく知れ渡っています。
父に当たる孝霊天皇のお宮跡は今も太子道沿いに残ります。幼少の頃、モモソヒメは孝霊神社のある田原本方面に住んでいたのかもしれないですね。
本殿脇から境内を振り返ります。
鳥居の両脇には木が植えられ、どこか石燈籠や狛犬のような役割をにおわせます。
神御前神社の案内板。
御祭神は、第7代孝霊天皇の皇女で大物主大神の神託を受けられる巫女として、崇神天皇のまつりごとを助けられました。
後に大物主大神の妃となられ三輪山神婚説話によるとこの神社の西方に位置する箸墓に鎮まるとされています。また鎮座地の茅原は崇神天皇が百官を率いて八百万神を祀った「神浅茅原」の地とも言われ三輪山を拝む好適地です。毎年元旦に執り行われる本社の繞道祭(御神火祭)が八社めぐりとして行われた。江戸時代にはこの社に御幣を奉り祭儀が納められました。明治十年には大神神社の摂社に指定され家庭円満諸願成就の信仰が篤い社であります。
祠の前には、踏台のような石が置かれていました。
現在、モモソヒメの墓所は大市墓(おおいちのはか)に治定されています。古代史ファンなら誰もが知る箸墓古墳ですね。数年前には立ち入り調査も行われ、徐々にその姿が明らかになろうとしています。しかしながら、箸墓古墳は謎のままであってほしいという願いもどこかにあります。
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒ モモソヒメノミコト)の「トトヒ」に注目してみると、面白いことが分かります。一説にはトトヒは「鳥飛」ではないかと言われます。鳥の姿に扮した巫女は、唐古・鍵遺跡などでもおなじみですよね。モモソヒメは神憑りを行った巫女的性格の女性だったのでしょう。
ここは古代卜占の地。
政を占う重要な場所です。どこで占ってもいいというわけにはいかないでしょう。神が降臨する場所は清らかです。祓われた場所に神意は降り立ち、それを民衆が共有します。
三輪山麓の中でも、初瀬川(大和川)と巻向川に挟まれたエリアを瑞垣郷と言います。古代より浄められた場所とされますが、茅原地区もその中に入っています。大神神社に摂末社は多数存在しますが、神御前神社は一際清らかなイメージを残すお社だと思います。